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西南戦争の戦跡を訪ねる 大分市

 投稿者:こだわり  投稿日:2018年 5月22日(火)09時38分44秒
  大分縣護国神社の入口から本殿へは鬱蒼とした森の中の階段を上がっていくのだが、その途中右手に“西南の役警察官墓地”(写真1,2)があり、103柱が埋葬されており、このうち36柱は阿蘇方面での薩軍との戦闘での戦死者であるという(長野浩典;前出②)。では、残りの戦死者は、どこの戦地に由来するのだろうか、と素朴な疑問が湧いてきた。

ところで、教科書で学んだ頃の西南戦争は、どこか他所事のような印象が永年あったが、この歳になって改めてこの戦争や時代に興味を持って以後、大分県は熊本、宮崎に次ぐ大変な関わりがあると、恥ずかしながら知ったしだいだが、“こだわり”の住んでいる、宮崎・熊本県境からかなり離れた大分市はどうなのだろうかと、これまた新たな、素朴な疑問が湧いてきた。

先年、義父がまだ元気に仕事をしていたころ、「大分市史 上中下全3巻」を頂戴したのだが、全3巻計3000頁にも及ぶ大作の中、下巻近代現代海外交流美術編1245ページ中の「五 新しい時代の明と暗 西南戦争と大分町(P117~121)」に概略が記述されていた。

要約すれば、①大分の町は(後方支援としての)兵站基地化していたこと、②熊本への交通の要所を警備するため各地から募集した士族を警官隊として配備していたこと、③(明治10年)4月2日中津藩士増田宋太郎が起こした中津隊が県庁を襲撃、市内に放火したこと、④(明治10年)5月14日竹田を占領した薩軍奇兵隊が2日後の5月16日には大分、鶴崎に迫り、海路佐賀関に上陸し鶴崎に宿営を張ったばかりの東京警視隊を襲い23人の死者を出したこと、等々が記されている。

 確認は取れてはいないが、大分縣護国神社西南の役警察官墓地には阿蘇方面での戦死者に加え、鶴崎での戦闘の戦死者も当然ここに埋葬されているのだろうな、と思った次第である。

 高校時代の3年間鶴崎に通った“こだわり”としては、大分市と西南戦争の関わりを知り、西南戦争がより身近に感じられるきっかけとなった“発見”であった。

 写真3: 今では義父の形見分けとなった大分市史全3巻

 
 

西南戦争の戦跡を訪ねる 黒土峠③大分縣護国神社

 投稿者:こだわり  投稿日:2018年 5月21日(月)21時25分7秒
  (明治10年)6月に入ると大分県南が戦場となり、大分宮崎県境ではひと月以上戦闘が続き、この時の官軍の負傷者は佐伯の野戦病院から鶴崎病院に送られ、ここで死亡した兵士の埋葬地が松栄山(大分招魂社・・・のちの大分縣護国神社)に設けられた(前出 長野浩典)。

今年の正月の初詣で訪れた護国神社の一角、大分市を見下ろす高台、別府湾の眺望が頗る良い場所に官軍墓地(214柱)がひっそりとあるのを“こだわり”は目ざとく見つけた(写真1,2,3)。しかし、その時は具体的にどの場所の戦闘で戦死したものか記述もなく判らなかったが、ここの戦死者の多くが黒土峠など県南での戦闘に由来することを長野浩典氏の著書で今になって知ったしだいである。



 

西南戦争の戦跡を訪ねる 黒土峠②

 投稿者:こだわり  投稿日:2018年 5月20日(日)12時18分34秒
  黒土峠は、大分・宮崎県境において薩軍別動隊と官軍との熾烈な攻防戦が繰り広げられた舞台の一つで、麓の重岡には前線基地が設けられ、ひと時数カ月の間、ある意味賑わいを見せたようです。本営には大山巌や乃木希典などが滞在し指揮を執ったことも記録されています。そしてこの峠は熾烈な戦いの翌春「・・・『各所ニ枯骨ノ散在』した状態〈渡辺用馬:「懐古追録」〉であり、遺骨を求めて鹿児島、宮崎から、戦死した兵士の遺族が遺骨の収集に来た」(長野浩典:「西南戦争 民衆の記《大儀と破壊》」)そうである。

重岡の集落のはずれで車から自転車(ブロンプトンこだわり号)に乗り換え、道の分岐のたびに黒土峠への道を、スマホGPSで現在地確認しながら、最初は緩傾斜の道を漕ぎあがって行く。が、すぐに、傾斜がきつくなりとても2速変速では脚力がもたず自転車を押すことになった。車デポ地点が標高155mで目指す峠が標高550mほどで、結局漕ぎあがれたのは最初の標高差100mほどで残りは、というかコースの大半は、せっせと押すばかりであった。峠手前から途中長峰(標高501m)に至る分岐があり、峠に至る車道は全行程よく舗装されており思いの外走行しやすかった。

この分岐辺りから黒土峠付近はほぼ水平道だけれども、尾根道の両側は切れ落ちた急斜面で、春霞ながら西に傾山がぼんやりと遠望できた。“こだわり”は西の傾山に目を奪われていたが、実はこの黒土峠の尾根筋からはほぼ真南側の意外と近いところ(と言っても直線距離にして15kmほどのところ)に可愛(えの)岳が確認できること、そしてこの峠や付近の板戸山など、尾根筋に分け入り気を付けて観察すれば官軍や薩軍が作った台場や塹壕が今でもはっきり(と言っても眼が肥えていないと無理か・・・)と確認できることを、のちに拝聴した高橋信武氏の講演「西南戦争の考古学的研究」で知った。

峠には「古戦場跡 黒土峠 西南戦争 天正の頃豊薩戦 古戦場」と書かれた朽ちかけた標識がぽつんと立ててあるのが、往時を偲ぶ唯一のよすがだった。そしてこの標識には西南戦争のほか、豊薩戦の記載があります。島津氏の侵攻と迎え撃つ大友氏の合戦ですね。大分と鹿児島には戦いの歴史があるのですね。
 

西南戦争の戦跡を訪ねる 黒土峠①(2018.5.16)

 投稿者:こだわり  投稿日:2018年 5月20日(日)12時13分45秒
  ここで西南戦争を取り上げようとしたとき、身近に鹿児島出身の“やっせんぼ”さんがいらっしゃることを、頭に置いていませんでした。

実は、幕末明治維新と西南戦争は、“こだわり”にとって10年前定年退職後の大きなテーマでありまして、この掲示板で西南戦争関連の戦跡訪問などで感じたことを、包み隠さず書こうかなと思っていました。が、やっせんぼさんの思いがけない書き込みを機に、鹿児島と大分というか薩摩と豊後にとって、かつて因縁浅からぬもの・・・直近の因縁としましては140年前の西南戦争、古くは大友島津の合戦・・・があることを感じ、「これはうっかり思ったままをかけないぞ・・・」と思ったしだいです。

というのも、“こだわり”の会社の皆さんでは、例えば、鹿児島・山口出身(別に薩摩と長州出身者というわけではないのに)の者は、福島県で仕事・・・特に営業関係の仕事をするときは、「ご出身は」と尋ねられても決して出身地は明かさないんだとか。150年経ってなお、戊辰戦争の時の遺恨を引きずっている部分があるのですね。

一方、薩摩と豊後の歴史上の関わりが現在まで引きずっているとは、意識したことはありませんが、その当時の関わりの中で何があったのかを突き詰めていくと、やはり「けっこう色んな事があったんだなあ・・・」、「テレビの大河ドラマじゃあ見えてこないけど、寒村がある日突然現れた薩軍により、また、(それに対峙する官軍に)より、数カ月の間蹂躙された、迷惑この上ないものだったんだなあ」という感じなんですね。

“こだわり”は、昨年秋の後立山唐松越え~黒部下ノ廊下と今年2月湯っ栗さんとの積雪期西中国山地縦走や、クライミングにおいても大洲の右大ハングや本匠の“銀杏の小径”(いずれも10c~11aクラス)の完登で、「こだわり山日記」の目指す“こだわり登山”は年齢的なこともあり一応の区切りとし、今後の登山は長年温め続けてきた峠や源流をその地域の歴史とのかかわりあいの中で辿ってみたい、と思っているところです。前回書きこんだ三田井の小坂越のことも、その一環なのです。

さて本題。田原坂の後、薩軍本陣は人吉から小林→宮崎を経て延岡に転進するのですが、別動隊が三田井から延岡を経て、竹田→大分、三重→臼杵、宇目→佐伯・蒲江と侵攻してきます。西南戦争では、熊本城や田原坂での攻防、可愛岳突囲、城山ばかりが注目されていますが、実は大分県はこの戦争の舞台として県南豊肥地区は、田原坂からの北上を断念した薩軍にとって中央へのもう一つの突破口にすべき要であり、熾烈な攻防が繰り広げられた舞台なのです。黒土峠もその一つですね。

図1: 西南戦争 九州での両軍の移動経路、図2: 西南戦争大分県南の攻防 赤;官軍、青;薩軍(いずれも佐伯市歴史資料館展示資料から)

 

西南の役戦跡

 投稿者:やっせんぼ  投稿日:2018年 5月14日(月)19時09分21秒
  西郷どんの西南の役戦跡が小坂峠にあったとは知りませんでした、桐野利明が佐土原で西郷札と呼ばれる軍票を印刷し軍費を調達したとは聞いていましたが、延岡での戦闘も官軍艦艇から艦砲射撃を受け九州山地を抜け城山で最後を遂げた、西南の役の薩軍の死者は6800人弱、官軍は6400人だとか、鹿児島の地方紙南日本新聞社の記事では西南の役で薩摩隼人は絶えたと書かれていた事を事を思い出した、法事で帰省時南洲墓地にお参りして南洲顕彰館で再度西郷隆盛の事を学びたい。
こだわりさんの登山記録で更に望郷の念が強まった、あいがとごわした。
 

西南戦争の戦跡を訪ねる 三田井②小坂峠(2018.5.5)

 投稿者:こだわり  投稿日:2018年 5月 7日(月)21時46分10秒
編集済
   案内板にはこれとは別に、高千穂町の北方、小坂峠(小坂越、尾坂峠ともいうらしい)のことも記述があった(前出 写真2)ので、大分への帰路に立ち寄ってみた。

 官軍墓地にあった案内板の大まかな見取り図では、国道325号線から小坂峠入口を入るように説明がある。その入り口を探すのに一苦労したが、大方見当をつけた村道を上がっていくと「小坂峠 西南の役古戦場跡」(九州自然歩道 宮崎県)と書かれた標識を見つけた。

 少し荒れてはいるが比較的幅広な小径を、峠へと辿ってみた。この道はもともとが九州自然歩道(九州自然歩道 新ガイド〈下〉宮崎、鹿児島 西日本新聞社編)なのだが随分と荒れ果てたものだ。途中、イノシシ、シカの防護柵で遮断されており、それをかいくぐったりして薄暗い杉林の中を登ることわずか15分ほどで小坂峠(説明板では尾坂峠)に着いた(写真1)。

 官軍墓地での案内板の中の見取り図では、途中に薩軍の墓地があるはずなのだが、見落としたのか、見取り図そのものが峠の南側を登るような書き方をしていることもあり、峠の説明板を確認したのち南側(高千穂町側)に下ってみたが結局、薩軍兵士の墓は確認できなかった。

「尾坂峠(西南役古戦場) 尾坂峠は、西南の役戦史の上でこの地方における三大激戦地の一つで明治10年5月25日の未明から夕刻に至る10時間は、熾烈な戦闘が展開され、官軍の戦死傷6名、薩軍は17名の戦死者を出しました。 環境庁 宮崎県」(以上 峠に設置された苔むした説明板から)

 今年の正月に三社参りで訪れた大分市の護国神社で、一角に西南の役墓地を見つけた。28都府県からの兵士214柱が埋葬されてあった。いずれも官軍兵士のものだ。そう言えば“こだわり”の前職場関係で三重町大原(県農業試験場と大学校が併設されている)の一角にも西南の役の立派な慰霊塔があった。薩軍野村忍介率いる隊の豊後進攻時のものだが、これもまた官軍戦死者の供養のためだったような記憶がある。

 国内最後の内戦である西南の役では、(その後の恩赦があったにしても)基本的に薩軍は賊軍であり、そういう意味では各地の西南役戦跡などで官軍が鄭重に祭られているのに対して薩軍が、少々わびしい気がするが致し方ないことか・・・。

 薩軍墓地を探すために峠を南側に下ってみたら、かつて九州自然歩道として整備されていたとはいえこうまで荒れ果てると、もう引き返す気になれずそのまま塩市の集落まで下ってしまっていた(写真:塩市の集落から小坂峠を振り返る)。田ごしらえの始まった田園風景の中、デポした愛車CX-5までの道のり、のんびり散策を楽しんだ(コースタイム:小坂峠入口9:15→小坂峠9:31→再び峠入口10:47 歩行5.3km・・・写真3)
 

西南戦争の戦跡を訪ねる 三田井①(2018.5.5)

 投稿者:こだわり  投稿日:2018年 5月 7日(月)20時40分18秒
編集済
  湯っ栗さんの相次ぐ“文化教養施設訪問の紀行文”書き込みに刺激を受けたことは否めませんが、元より湯っ栗さんほどの旺盛な作文意欲も軽妙な筆致も持ち合わせてもいないけれども、なるべく登山に少しでも関連付けた史跡訪問などを今後この場を借りて紹介してみたい。(あくまでも気まぐれ故、いつまで続くかわかりませぬが・・・)

 さて、親父山下山後に宿をとった高千穂の三田井は、西南戦争において薩軍が田原坂の激戦ののち各地に進攻(と言うか転戦と言うか、敗走と言おうか)した場所の一つであり、また、延岡での最後の戦いに敗れ、西郷隆盛が軍を解散したのち可愛岳突囲から城山に戻る途中に通過した場所だから、何か関連の史跡があるはずだと思った。

 スマートホンというのは大変便利なツールだと改めて思う。登山から一夜明けた早朝、グーグルマップでこの辺りの「西南戦争戦跡」で検索したら、宿から1.2kmほどのところにある「西南戦争官軍墓地」がヒットした。

 まず訪ねた官軍墓地についての説明は写真2の案内板参照。小高い丘の上(写真1)、こんもりとした森の中に42基の墓標が整然とあった(写真3)。丘への坂道はつい最近のことだろう、きれいにセメント舗装されていた。今年は幕末明治維新150年ということも関係しているのかな、と思った。

 

親父山アケボノツツジ鑑賞登山(2018.5.4)

 投稿者:こだわり  投稿日:2018年 5月 6日(日)16時25分3秒
編集済
  祖母傾山系の障子岳付近の宮崎県側は、障子岳から親父山(1644m)へと尾根が連なっている。親父山からはさらに黒岳や三尖(さんとつき)へと尾根が派生している。大分県人としての祖母傾山系は、祖母山への登路である五ヶ所北谷や傾山九折越に至る見立コースなどを除けば大分県側からの視点が多く、特に親父山一帯は二万五千分の一地図に登路の記載がないこともあり、これまで馴染みがなかった。けれども、アケボノツツジの頃には障子岳山頂から親父山方面にはピンクの山腹が遠望され、親父山の山名とともに前々から気になっていた。

 ネットの発達した今、あらためて調べてみると親父山一帯は高千穂方面から登路も拓かれ、特にアケボノツツジの頃は手軽にアケボノツツジ鑑賞登山を楽しめる、宮崎方面からの人気スポットのようだ。単に知らなかっただけのことである。

 いつもは九重山を中心としてミヤマキリシマと紅葉の頃の年2回、湯坪温泉に集う仕事関連のOB仲間の有志から「たまには浮気をしましょう」、と親父山を誘われた。晩年に山を始めた人達は旺盛な好奇心でエネルギッシュに、ある意味怖いもの知らずで、次から次へと新しい山に興味を持つ。そんな人達にリードされて、五ヶ瀬川源流域の登山口を少し遅めに出発。

 天気晴朗なれど風強く、日本海上空にどっかり居座った寒気団の影響か、3月下旬並みの寒気だ。加えて空気が乾いていることもあり汗ばむこともなく、少し寒いのを我慢しさえすれば快適な登りだ。思い思いに写真を撮ったりしながらそれぞれのペースだから、ミツバツヅとシャクナゲに始まり、主目的のアケボノツツジなどコースの至る所で十二分に季節の花を堪能できた。

 メンバー4名のうち既に何度かこの山を体験済みの二人は山頂までのピストンなのだが、私を含む初めての二人に黒岳(1578m)から三尖(さんとつき、1474m)への周回を熱心に薦めるので、山頂で別れ周回コースに足を踏み入れた。黒岳付近は小さなアップダウンや時おり岩稜の続く尾根だが、回ってみて正解だった。というのも、登りごたえという意味だけでなく、アケボノツツジの群落の規模からしても、往路の尾根とは別格に圧巻であったから。

 主目的のアケボノツツジは標高1500以上で見ごろだったが、そればかりでなくこのコースはシャクナゲもミツバツツジもほぼコース全体に多く、登山口が標高1130mほどでアプローチも舗装されており、この歳になって知ったことだが、このコースはまさに格好の高年者向きコースだった。

(コースタイム) 親父山登山口10:18→山頂12:59→黒岳13:54→三尖14:35→登山口15:17 歩行距離:7.0km

写真1:コース軌跡ログ、写真2:黒岳のアケボノツツジ、写真3:黒岳付近からの親父山

https://www.youtube.com/watch?v=ss0eHCr1Ezc&feature=youtu.be

 

下関歴史博物館で講座受講と勝山三山縦走byブロンプトン号の巻  その2

 投稿者:湯っ栗  投稿日:2018年 5月 1日(火)11時12分41秒
   2回目は勉強終了後、長府の背後に控える勝山三山縦走の記録です。

  さて勝山三山は四王司山(392m)を盟主として、勝山(361m)、青山(288m)の連なりを指すが、勝山御所をベースにした縦走は低山ながら変化に富みなかなか面白かった。植生豊かな自然林の中、要所要所では展望も効き、緩急織り混ざったコースは次にどんな変化が現れるのか飽きることがなかった。

  一方で歴史の観点で申せば、かって三山はそれぞれに山城を有し、栄枯衰勢の物語は涙なくしては語れない。特に勝山は“且山”と言われていたが、戦国の世、毛利元就に追われここに落ち延びてきた大内義長が最後の望みを託して“勝山”と改名。“希望”の山としたが、敵方毛利の停戦条件を真に受け、簡単に騙されて滅亡の憂き目を見たと言う。三山の中では唯一山容も猛々しく、その意味では“怨念”がこもった山(城)と言っていいだろう。

  次いでながら盟主・四王司山(山城)の歴史はもっと古く、早鞆瀬戸をおさえる位置にあったため、瀬戸内海交通の要衝として古代から中世にかけてこの地を治めた厚東氏が築城したと言われている。しかし戦国時代は厚東、大内の合戦が相次ぎ落城の都度、主が変わり、群雄割拠の舞台となったそう。緑豊かで穏やかな山容も、歴史の面では穏やかな過去ではなかったのだ。

  とそんなこんなの憂いなど知る由もなく、能天気三人組(我々のこと)は春の陽光を受け、よく整備され歩きやすい登山道を確実に高みへ詰めて行ったが、特にМ田君のお喋りに相槌を打ちつづけたK子さんとのコンビは、登路の様子などまるで眼中にはなく、話題が途切れたら山頂だったと言うくらい熱が入っていた模様。よくもまぁあることないこと話題が尽きぬものだが、間近で見続けた証人(湯っ栗)が言うので間違いはない(笑)。しかもこのシチュエーションは四王司山から勝山へ、勝山から青山への縦走路でも変わらず、延々と続いたから恐れ入る。

  ただ四王司山の東側に開けた展望地から長府の町並みや周防灘の輝きには驚嘆し、縦走途中の岩山展望台や勝山山頂では、累々と繋がっている下関以北の山々を俯瞰し、「よし次はあの山だぜ!」などと口走っていたので、ピンポイントではそれなりの印象は残っているやに思いたい。して如何か?

 と都合4時間弱の縦走を終えて登山口(勝山御所)へ舞い戻ったが、ほどよい距離、ほどよい運動量に加え珠玉の展望とたっぷりの森林浴までおまけに付いては言うことなし、と手前ミソに言ってしまおう。そんな感慨を知ってか知らずか、下山しても二人の喋りは止まることを知らなかったが、刹那、無形文化財への登録をくだんの学芸員、I 益さんに伺ってみようか、と考えるほどに・・・・と、これは全くの余談でしたね。

  最後に主題からは少し外れるが、帰門後、K子さんの古稀祝いを兼ねて門司駅前の小庵でささやかな小宴を設けた。人生の節目としてアニバーサリー的なひとときを共有できたが、そんな中、彼のこれまでの来し方やこれからの行く末などをつらつら思い起こしてみた。つまりは「我が道を行く」とか「楽天家で涙脆い」などと揶揄する御仁がいないとも限らない(笑)が、「旺盛な好奇心と弛まぬ実践力」のベクトルが並はずれて高いことは誰もが認めるところであって、他の追随を許さない。

  その意味でこれからも愉しい健康寿命延伸プログラムをどしどし企画・立案して実践することこそ責務であって、そのことは我々のこれからの行く末にも大きく関わっている。益々の健勝を祈ろう。

(※)下関市内維新関連史跡巡りと弦楽四重奏コンサート鑑賞などby MTBの巻(拙著)参照

(参加者) K子、M田、湯っ栗

(コースタイム) 門司(自宅)8:50⇒人道トンネル門司側9:34 36→下関出口9:45 48⇒前田台場跡9:54 56⇒長府・歴史博物館10:12 (「幕末のメディアと下関」講座受講)11:42⇒勝山御殿跡・登山口12:07(昼食)12:31→四王司山(上宮&展望地)13:14 36→岩山展望台13:47 51→勝山・勝山御所分岐14:06→勝山14:34 46→勝山展望台15:10 13→平畑山15:26→青山15:50 52→登山口16:28 37⇒人道トンネル下関側17:04 07→門司側出口17:17 19⇒門司駅17:48(駅前・BONGOにてK子氏の古希の祝宴17:55~20:05)20:13⇒自宅20;21
三山縦走7.5㌔  自転車走行 約41.9㌔  (※ ⇒は自転車、→は歩き)

写真上:勝山御所登山口を始終点に勝山三山縦走コース図
    中:四王司山東側展望地から観た長府の町並みと周防灘
  下:岩山展望台から勝山~青山の稜線を眺める
 

下関歴史博物館で講座受講と勝山三山縦走byブロンプトン号の巻  その1

 投稿者:湯っ栗  投稿日:2018年 5月 1日(火)11時07分32秒
   GW第一弾の報告です。先月28日自転車で海峡を潜り、下関は長府界隈で歴史を学び山を歩いてきました。2回に分けて掲載します。先ずはお勉強の報告を。

  先月25日、輪友・K子さんと下関の維新関連史跡巡り(※)の際、長府の市立歴史博物館で「幕末のメディアと下関」についてミニ講座が開かれるのを知った。と同時に史跡の一つである勝山御所跡(城跡)まで足を延ばしたが、古城に立つと、勝山三山が障壁のようにグルっと囲み、登高意欲が湧くのが分かった。この三山のそれぞれには既に登っているが、一度に繋いでの縦走はなく食指が動いたのだ。ならば次回、長府で講座を受講し、その足でこの三山を縦走すればアプローチの自転車と相俟って、脳と体の活性化に寄与するは必定。健康寿命延伸プログラムとしても、うってつけであろう。

  つまり学習を積み、それなりのエクササイズもこなせれば一挙両得、一兎よりも二兎追う方がいいに決まっている。そこで快晴に恵まれたGW初日、講座開催日に併せ、いざ決行と相成ったが、メンバーはいつもの輪友三人組。但しK子・М田両兄は未踏ゆえ案内役として張り切らざるを得まい。さぁビシバシ登ろうじゃないか(笑)、と海峡を潜ったのだ。

  先ずは歴史博物館でのミニ講座のあらましから入ろう。長府は功山寺前の清閑な緑陰に立派な館はあった。功山寺には幾度となく訪れているが、ここは初めて。門司から近いし、隣市協定でシニア特典(割安)もあり使わない手はない。以後お見知りおきをと言ったところか。

  でミニ講座の演題は案内のように「幕末のメディアと下関」だが、そもそも明治維新150年記念として表題の企画展を3/17~5/20まで開催中であって、その一環のミニ講座なのだ。つまりさわりの部分の解説(ミニ講座)を呼び水として、後はじっくりと企画展を観ていただきたい!が館の狙いであろう。

  しかし我々には展示物まで観る時間的余裕はなく、上澄みだけ戴いて退散だ。ついては仔細洩らさず真剣に聴こうとするおじさん三人(我々のこと)の真摯な眼差しが会場の空気を緊張感溢れるものにしていたと思う(たぶん)。おっと前列のおじさんのように講演が始まると睡魔を催し、終わった途端に起きてチンプンカンプンな質問をするような非礼はいただけないよなぁ。

  で受講者は殆どシニア世代の30人ほど。対する講演者は女学生かと見まごう I 益学芸員。まるで孫が祖父母に諭すが如く、爺・婆相手に当時の錦絵や瓦版を例に出し、内容や背景などの解説を粛々と行ったが、話の筋はしっかりと押さえて時には抒情的な表現をも操り、なかなか堂に入った講演だったと思っている。

  してその主たる内容は、幕末の下関は攘夷戦、下関戦争、小倉口の戦い、更には戊辰戦争に至る事件・事象を扱った瓦版の解説に費やした。これらは総じて扇情的に報じたものが多く、記述の信ぴょう性はともかく、現場から遠く離れた人々にどう関心を持ってもらうか、衝撃的とも映った表現は如何にして生まれたのか、伝達手段としての即時性も重きに置いて(商売として)読者獲得を狙った努力の跡も伺えるのだ。

  その意味では市井の人々が目や耳で感じた(瓦版から受けた)、幕末の下関の空気はこんなものだったのか、タイムスリップして新鮮な感慨が湧きいずったのは筆者だけではなかったろう。I 益さん、ありがとうね。

写真上:下関市立歴史博物館の明治維新150年記念企画展「幕末のメディアと下関」パンフレット
  下:ミニ講座受講後の一コマ。I 益さんこっち向いて!
 

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