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出雲の国へ 第1回国宝松江城マラソン応援と周辺見聞の旅(2018.12.02) その4

 投稿者:湯っ栗  投稿日:2018年12月10日(月)17時48分16秒
  ④松江城界隈を見聞する
  スタート直後の余韻覚めやらぬも、5000人もの大集団が松江市の東部、中海方面へ残らず移動してしまっては、しばし街の熱気も下がり、日常の気に戻ったかのよう。そこでピーカンの天気に加え、松江在住12年のまどか嬢も同伴となれば、H原君のゴール想定時刻まで松江城周辺の案内を乞うたのは必然やったかもしれぬ。そして彼女の的を得た分かり易い案内(説明)を受けると、城を中心とした街の成り立ちや、歴史、島根県の県民気質など、なるほどと思わせることが多々あった。すでに一級の観光ガイドとしても充分通用するほどの見識を有し、カミさんは無邪気に感嘆しつつ、一気に“まどか嬢”ファンと化したが、もちろん誇張ではない。畑違いの一公僕?としてだけでは、もったいないことしきりであったが、余談でしたね(笑)。

  以下、立ち寄った松江城や八雲記念館などで彼女の説明を聞きながら、腑に落ちたことや感慨などを簡単に述べてみたい。先ずは17才の時、原付バイク旅行で訪れて以来およそ半世紀ぶりの再訪となった松江城のこと。大会の名称を国宝松江城マラソンとわざわざ“国宝”を冠したことに多少の違和感があった。と言うのも以前から国宝と思い込んでいたので、その大仰感は否めなかったのだ。ところが何と3年前(2015年7月)に指定されたばかりとは。国宝の天守閣は姫路城、松本城、犬山城、彦根城と松江城の5つしかない。しかし戦後間もなく指定された他の四城と時を大きく隔てての理由は何か。四重五階の荘重雄大な天守は近世城郭最盛期を代表する建築と分かりきっていたのに、何故最近の指定なのか?素朴な疑問が湧きいずったのだ。

  まどか嬢によるとそれは6年前に再発見された祈祷札2枚により、松江城天守の築造年代が慶長16年(1611)であることが確定したためと、通し柱を用いた特徴的で優れた構造が最近ようやく判明したことなど、「新たな知見」が確立されたことによって認定された由。もとより文化財の認定はおっつけ仕事でできるものではなかろう。それでも古文書や口伝などで築城年代を想定し、価値を推し量ることは難しいことではないと思う。しかしそんな“情況証拠”で決まるものではなく、確固たる事実と認められる証拠がなければならないこと。

  松江城は(己の)上ずった先入観を戒める、いい教材になったのは確かだが、加えて国宝指定へ導いたのは真面目で勤勉、内に秘めて粘り強い働きかけの結果であって、出雲国の住民気質にも因る、と彼女は仰る。その意味では神話の時代から育んできた風土や県民性あっての国宝と言えなくもないが、異郷の地で育ったまどか嬢だからこそのつぶやきは、なるほど説得力のある理屈かなぁと思っている。

  さて松江城の北側、塩見縄手通りにある小泉八雲記念館も是非とも訪れたかったところである。日本へ帰化した西欧人で、時代を問わずもっとも著名な人は誰か?となると、先ず思い浮かぶのは小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)だ。彼は1890年4月に横浜の地を踏み、1904年9月に焼津で没するまで日本での14年余りの中、松江にはわずか1年2ヶ月しかいなかった。なのに我々(己)が知る日本での代表作「耳なし芳一」や「雪女」など、日本の伝説や幽霊話を語り直した再話文学や、明治日本の情景を映し出した日本の面影など、松江で執筆、或いは構想を練った作品が多いのに驚く。

  それは短期間ながら伴侶となるセツと出会い、この地に惚れ込んだ証とも言えるが、一連の作品を通して彼が訴えたかったことが、よく分かる。それは一言で云えば西洋中心の偏見に捉われることなく、オープンマインドで明治日本の本質を洞察し、未来の日本へ提言したことに尽きるのではないか。その意味で記念館の方向性は我が意を得たりであったが、発信力の点で現代の日本人にもっと喧伝すべきではないか、との思いを残した。

  おっと個人的にはもっとじっくり観たかったが、全体のスケジュール上、切り上げざるを得なかったのは残念至極。とまぁ後で悔やんでも仕方ないが念願の記念館探訪、松江城とともに来た甲斐があったというものである。

写真上:松江城本丸から天守閣を仰ぐ
  中:掘割りを巡る遊覧船も松江観光には外せない
  下:割烹「なわのれん」にて勢揃い 完走?打上げの宴
 
 

出雲の国へ 第1回国宝松江城マラソン応援と周辺見聞の旅(2018.12.02)  その3

 投稿者:湯っ栗  投稿日:2018年12月 7日(金)22時07分45秒
  ③松江城マラソンの応援と大会の感想など
 フルマラソンのスタート地点へ出向き、応援に回ったのはたぶん初めての経験だったと思う。ましてエントリーフィーも払込み、出走予定だったレースに応援側(傍観者)として立ち会うのは、それなりの無念さは否めない。が何かしら妙なもんじゃね、との思いも交錯する。ここは前段の気持ちはリセットしてレース観戦を愉しもうと、切り替えが肝要だ。

 快晴の下、JR松江駅にほど近い宿から会場の市総合体育館(スタート&ゴール地点)まで徒歩12.3分の道中は、大勢の出場者と同道した。JR利用の大会関係者にとっては会場までのアクセスは良好と言っていいが、たぶん少数派に違いない。スタート1時間前に着いた会場の混み具合は、駅からの流動数とは比べものにならないくらい多かったのが理由だが、それでも福岡や北九州のフルマラソン大会と比べれば半分以下の規模(5000人余)なので、個々の行動にゆとりを感じたのは湯っ栗一人ではなかろう。そして先ずもって喜ばしきことは、さほど寒くもなく快晴ほぼ無風のコンディションにあった。まさに大会関係者や選手に応援を含めた全員が一様に安堵し、ウィンウィンの関係を保てたのだから。運営上の不備など多少あったとしても目をつぶろうよ、と思わせる好天に恵まれたのだ。

 でスタート地点で待つことしばし。そこに泰然自若としたH原君のおでましは4年ぶりの再会だったが、まもなくフルを走ろうとするのに、もう少し緊張感など滲ませんのかねぇ?と思わぬでもなかったぞ(笑)。そして直後に市内在住のN田まどか嬢(※2)とも再会を果たしたが、彼女が小学校の低学年以来だからおよそ20年ぶりか。小児の面影は残ってはいるものの、チャーミングな女性に成長してしまっては、(己の齢も鑑みて)時の流れの速さを思わずにはおれなかったか、うるうる。

 と二人を相手に四方山話は尽きなかったが、先ずは最後部ゾーンからスタートしたH原君を見送った後は、そのまま待機と相成った。コースは市内を周回して再びスタート地点(5.5㌔地点)に戻り、中海方面へ向かうので、まだ序盤の元気な雄姿を拝もうと目論んだのだ。して10名ほどのトップ集団は18分余り経過して現れ、あとはちょっと間が空いてぞろぞろと三々五々の感。トップ集団でもエリートマラソンとは明らかにスピードが違い、ゆるゆる感は否めなかったが、またそこが市民マラソンの所以たるところかと納得しきりだ。で目を凝らしつつ40分ほど経って、ようやく集団の中に紛れたH原君を発見。走り方も泰然自若だったが、もう少しせわしく動いてもいいのにねぇ、とは余計なお世話か。とは言いつつもゴールまで会うことはなく、武運長久を祈るしかなかったが、申告タイムの5時間15分(午後2時ちょうど)前にはゴールで待っているぜ!と彼の背中に投げかけたのを分かってくれただろうか(※3)。

 一方で初めての開催は主催者側として大会の評価は気になるところであろう。もちろん今はネットの時代。大会ごとの評価はランネット(出場者のアンケートによる)で定量値(※4)を閲覧できるが、今年、数多あるフル主体の市民マラソン大会の中で、松江城マラソンの評価点は47.7点/100点 と全国最下位だったことを心苦しくも記しておこう。非常に厳しい評価と言うほかはないが、全国から集まった目の肥えたランナーの採点を謙虚に受け止め、次回に向けて課題を共有し一つ一つ改善していけば伸び代は大きいことも道理だ。

 ちなみに主だった意見で目を惹いたのは
「地方のハーフの大会の延長でフルマラソン大会を運営してしまった感がある。(給水の不手際、トイレ・給食の少なさ) あくまで地方の少人数の陸上競技大会に徹するのか、他大会のように観光誘致、地元物産のアピール機会と捉えて地域を挙げて取り組むのか方向性を統一すべき」や
「致命的なのは事前の情報発信の無さ。予算はなくてもSNS、公式HPでの発信はできるし、今回の荷物預かりシールや、記録証発行などの不測の事態も周知できるはず。またFunランに目線を合わせるのなら、給食は:前半から分散して特産品(出雲そばやしじみ汁、和菓子等)を盛り込む。給水:始めは水のみで後半にスポーツドリンクを切らさずに」など。またコースの注文として
「:前半は松江らしい景観を見せる意味で松江城の北側、塩見縄手の武家屋敷を通って松江しんじ湖温泉へ抜けるコースに変更できないか。代わりに30~34キロはショートカットするなど」と具体的だ。

 大会をよりよい方向に育てていくには避けて通れぬ意見に違いなかろうし、沿道で応援したかぎりでも、それとなく肌で感じたことでもあった。今や満足度の高い大会をいくつも知ってしまったランナーたちの目線は高いぞ、と改めて思い知ったのだったね。

(※2)大分時代のトライアスロン仲間・N田さんの娘さん。我が息子とはキッズ・トライアスロン仲間だった。
(※3) ゴールで1時間以上待ったが、ついぞ現れることはなく、結果、第6関門(38.7㌔)で  引っ掛かり、3.5㌔を残してリタイアとなった模様。
(※4)今年の市民マラソン大会(フル)のベスト3は1位に徳島県の海部川風流Mの94.4点、  2位は同率で富山県は黒部名水Mと、岡山県のおかやまMの93.3点だった。松江Mの2倍近  くの高得点を稼いだ裏にはそのノウハウがぎっしり詰まっている筈である。ちなみに九州の  大会も軒並み高く、熊本城Mの90.1を筆頭に佐賀桜と青島太平洋Mの88.6、北九州M 87.4、  福岡M 82.7、鹿児島M 82.6、国東とみくじMの80.5と全国に高いパフォーマンスを発信し  ている。

(参加者) 湯っ栗、 妻、H原、N田
(スケジュール)
12/2 宿7:29→マラソンスタート(松江総合体育館)7:44 9:30→松江城10:00 40→小泉八雲記念館10:57 11:35→八雲庵(昼食)11:38 12:08→武家屋敷12:10 28→堀川めぐり大手前広場乗場(乗船)12:37 46⇒(舟)⇒カラコロ広場(下船)13:18 20→マラソンゴール(松江総合体育館)13:35 15:00→宿15:15 18:00→夕宴会場(なわのれん)18:15  20:40→宿20:58                                  松江プラザH本館泊

写真上:スタート地点にてH原君と 4年ぶりの再会
  中:8時45分いざスタート! でものんびりムード漂う
  下:応援しているのか雑談なのか分からぬがカミさんとまどかちゃん
 

出雲の国へ 第1回国宝松江城マラソン応援と周辺見聞の旅(2018.12.01~03)  その2

 投稿者:湯っ栗  投稿日:2018年12月 7日(金)21時59分1秒
  ②安来・和鋼博物館訪問
 たたら製鉄関連で是非押さえておきたいところがもう一箇所あった。安来市の和鋼博物館だ。但し、「鉄関係の趣味は男だけの愉しみね!」と仰るカミさんの矛先を変えるために、先に宍道湖北岸に面した松江イングリッシュガーデンへ赴いた。しかし冬枯れのこの時期に、うら寂しき庭園を想定するのは無理からぬこと、そして現実もうら寂しかったが、秋バラや野草の名残りもそちこちに見受けられ、庭全体の手入れもけっこう行き届いていたのには少なからず驚いたのだ。と言うのは入園料(と駐車場も2時間まで)が無料だから。しかも道路を挟んだ駐車場と繋がった跨線橋には上下エスカレーターも設えられ、常時動いているのだ。公営施設ならともかくどうやって維持管理しているのか、そっちの方の関心といささかの心配を併せ持っても不思議ではなかろうと(松江市の郊外、宍道湖北岸の寂しい地にあって、強力なスポンサーなどいそうにもあるまいに・・・とは勝手な思いだが)。

 さて園内散歩は30分弱で切り上げ、再び宍道湖の南東岸まで戻り山陰道に乗って、安来市立和鋼博物館を目指した。“和鋼”とは砂鉄を原料にたたら製鉄法で生産される鉄を言うが、博物館は中海に面し、古来からのたたら鉄積み出し港・安来港に隣接したチンギスハンの帽子のような円錐形の建物がそれだ。

 もちろんたたら製鉄に関わる全てが詰まった博物館だからこそ、これらの歴史や文化、産業をわかりやすく知らしめようとする内容が盛りだくさんだ。中でもたたらを再現して炎を燃やし、製鉄の様子が体感できる展示室や、鉄ができるまでの工程を解説する映像に、製造されたケラと呼ばれる鉄(不純物を含む)の塊も展示され必見。また製鉄に欠かせない足踏み式の天秤ふいごなど、実際に使われていた製鉄用具の展示は、にわか“たたら鉄趣味”の己にも興味は尽きなかったことを記しておきたい。

 一方で物見遊山な観光として訪れるには、少々マニアックな内容ゆえ万人受けはしまい。カミさんの表情を見ながらそんな思いがよぎったが、退出後は真っ直ぐ松江市内へ戻り、旬のグルメが待っているからね、と取り成したのは言うまでもない(笑)。

写真上:松江イングリッシュガーデンの入口にて
  中:安来の和鋼博物館の外観
  下:和鋼博物館の展示室
 

出雲の国へ 第1回国宝松江城マラソン応援と周辺見聞の旅(2018.12.01~03の記録) その1

 投稿者:湯っ栗  投稿日:2018年12月 7日(金)21時52分40秒
   引きこもり中ですが、縁あって先週末に松江まで小旅行を敢行しました。以下複数回に分けて報告します。先ずはその1

  初開催の国宝松江城マラソン(フル)に張り切ってエントリーしたものの、不慮の火傷事件で棒に振った。しかし半年前から宿は取っているし、米子の走友・М原君の応援をダシにして、松江周辺の観光を含めた小旅行を敢行することに。ちょうど節目のルビー婚記念日とも重なったので、ささやかながらカミさん同伴の旅として位置付けたのだ。してアプローチは車。ようやく緩い靴は履けるようになり、変速の都度傷口に多少の違和感は残った。それでも長距離運転に特に問題なかろうとの判断は利便性に代えられないから。いざ師走初日は早朝出発とし中国道を東進。久し振りのロングドライブは遥かいにしえ、遠足の気分にも似て心躍った。

①菅谷たたら山内訪問(※1)
  中国道の三次東JCTから松江道に入っておよそ40分、雲南吉田I.Cで降り、多少迷いながらも田舎道を10分余で菅谷たたら山内に到着。雲南市吉田町の山奥、標高350mの谷間に、忽然と姿を現す大屋根の建物が先ず目に入った。菅谷高殿だ。パンフによると高さ約8.6m、周囲18.3mの国の重要文化財、全国で唯一現存する江戸時代の製鉄工場とある。吉田町で高殿式製鉄が始まったのは、今からおよそ300年前。原料である良質な砂鉄と、見渡す限りの豊富な森林資源に恵まれた地は、現在、ひっそりと眠っているような山間の町と化している。しかし最盛期には2,000人もの従事者が働いていたと言うから、活況を呈していた筈。アニメ“もののけ姫”の舞台となったのは広く知るところだが、往時の賑わいからすると似つかわしくないのかもしれないぞ(とタイムスリップして、情景を想像しただけでワクワク感がよぎるぞ・・・笑)。

  さてこの高殿は、江戸の中期(1751)から大正10年(1921)までの170年間、操業が続けられたが、以降は近代的な製鉄の前には採算が合わず、操業の火は消え今に至っている。因みに山内(さんない)とは、高殿をはじめとする関連施設や、たたら製鉄の従事者が暮らす集落一帯を称した呼び名で、高殿にもう二度と火が入ることはなかろうが、神秘的な雰囲気に満ちていたように思う。中央に製鉄炉があり、その両脇に、炉の中に風を送る足踏みの天秤鞴(ふいご)が配置される(実際には撤去されているが・・・)。「ひとつの高殿で、約20人ほどが働いていて、炉の中に砂鉄を装入できるのは、村下(むらげ)と言う技術長と、裏村下とも呼ばれた副技師長格の人だけ。村下を世襲制としたのは、高度な技術の流出を防ぐためだったようです」とは説明員のおじさん。校長上がりのような教職風の雰囲気と巧みな話術がありましたね。

  またたたら製鉄の神様は金屋子神(かなやごかみ)と言って、桂の木に降臨されたと伝わる。よって高殿の傍らには、桂の巨木が聳えていたが、たたら場がある所には必ず、桂の木が植えられていた由。これほどの大木は昔、信州は新島々から徳本峠を目指した際、山峡の岩魚留小屋の傍らで仰ぎ見て以来のこと。その時は重厚な存在感と不思議な“気”に魅せられた記憶が残ったが、桂の木の不思議な存在感は神が降臨してくるぐらいのパワーを備えていたのか、と今更ながら思ったものだ(例え たたら場ではなくとも)。

(※1)本HPの掲示板「奥出雲に息づく たたら製鉄の歴史」 湯っ栗  2016.02.05 を参照

(参加者) 湯っ栗、妻

(コースタイム)
12/1 門司(自宅)6:49⇒(車・九州道・門司港I.C~中国道・三次東JCT10:10~松江道・雲南吉田I.C10:49経由)⇒菅谷たたら山内11:02 46⇒道の駅・たたらば壱番地11:55(昼食)12:25⇒(松江道・雲南吉田I.C~山陰道・松江玉造I.C経由)⇒松江イングリッシュガーテブン13:14 40⇒(山陰道・松江玉造I.C~安来I.C経由)⇒和鋼博物館14:22 15:11⇒(R9経由)⇒宿(JR松江駅裏)15:55   松江プラザH本館泊

写真上:菅谷たたら山内の高殿をバックに
    中:高殿の内部
  下:松江道雲南吉田I.Cに隣接する道の駅たたらば壱番にて鯖寿司の昼食
 

(無題)

 投稿者:こだわり  投稿日:2018年11月28日(水)14時31分10秒
  鯨墓も大蔵永常も、思いがけない反応でびっくりしました。

本来このサイトは山へのこだわりが出発点のはずなのだけど、このところはあらゆる分野に話題が及ぶようになりました。

“こだわり山日記”ですが、“こだわり”から山へのこだわりが薄らぐと、タイトルを返上せねばならなくなります。

まっ、いいか・・・。
 

青海島の鯨墓関連

 投稿者:湯っ栗  投稿日:2018年11月28日(水)11時16分37秒
  5年前の小旅行で行った長門市青海島の鯨墓関連写真を掲載します。唐突にクジラの刺身食べたくなりました。冷凍が解けて赤い血が滲み出てくるようなやつ。子供のころ、地区の寄合い(宴会)での記憶は、熱燗の鼻腔をくすぐる匂いと解凍しはじめたクジラの刺身のしどけなさにあったような気がしてます。

写真上:通地区の高台にある鯨墓
    中:墓の近くに市立のくじら資料館があり、捕鯨の歴史や生活との関わりなどを展示
    下:資料館に隣接して、巨大なクジラのオブジェが。島民の思い入れが伝わってくる
 

文化・芸術の秋、週末の出来事2編 (2018.11.24・25) 

 投稿者:湯っ栗  投稿日:2018年11月27日(火)14時42分36秒
    大蔵永常の企画展をついこの前まで日田の中央公民館内の大蔵永常記念館で(たぶん)やっていたと筈(常設展との差異は分からないけど)。日田では広瀬淡窓と大蔵永常は江戸期から明治初期にかけての二大偉人ですもの。もっと地元は発信・宣伝してもいいのではないか、と常々思うとりますばい(どうも天領人はおっとりしすぎていけない・・・笑)。

  一方の鯨墓は全国いたるところにありますね。こだわりさんが申すように古代から営々と、鯨は余すとこなく日本人の生活を支えてきたし、西欧一神教の“輩”たちの、今になっての“押し付け”は納得し難いこと多しです(ちょっと前まで彼等は、鯨油を取るためだけに如何に多くの個体を捕獲してきたことか)。とこれを言いだすとキリがないので、鯨墓に戻ろう。湯っ栗は5年前、長門市の青海島で鯨墓に詣でました。青海島はかって捕鯨が盛んで、クジラを供養する鯨墓と、すぐ近くにくじら資料館も併設され、往時の鯨と島民の濃厚で深い関わりがよく分かります。日本固有の文化としてもっと焦点が当たってもいいのでは、もっと世界に発信すべきと思った次第です。

  さて先週末、市内で二つほど文学・文化・芸術の催しに触れてきました。その時の印象や思いを綴って、残り少なくなった文化・芸術の秋をいくらかでも感じて貰えれば幸かなと書き込みました。まぁ物理的に山に行ったり、走ったりとアウトドア的行動が取れないので、インドアに偏らざるを得ない側面はあるにしても・・・。

①11/24(土)中園ミホ トークライブの感想など(描かれた西郷どん展関連イベント 於:ムーブ)
  12/16まで「描かれた西郷どん」と題した企画展が北九州市立文学館で開催中だ。そしてその関連イベントで、大河ドラマ「西郷どん」の脚本家、中園ミホのトークライブが小倉北区のムーブであり、聴講した。

  トークライブと講演会、何が違う?となれば、トークライブはインタビュアー(聞き手)がいて、その質問に答えるというスタイルで進行するものなので、聴き手の力量で話の良し悪しはかなり左右されるのは自明だ。その意味では聴き手の今川英子さん(北九州市立文学館長)は丹念にミホ氏の脚本や著書、映像などを事前に読み込み視聴し、周到に準備をされ、的確にスムーズに、時にはミホ氏の話が脱線気味になると、穏やかに軌道修正を図り、本質を質すなど、その役どころは秀逸だったと思う。

  もちろん「西郷どん」展の関連イベントなので、大河ドラマ「西郷どん」の原作者林真理子と二人三脚で任された(指名された)経緯や、脚本執筆についての苦労話や達成感、俳優のキャスティング、彼等との関わりなど、西郷どんに関わるエピソードをうまく引き出していましたね。

  一方で中園ミホ氏自身の(に対する)感想は、豪放磊落な?性格を思わせる話術の中にも、緻密な現場主義に徹した取材の大事さ、こだわりなどが垣間見れて、なるほど地に這った取材を通して、何が問題なのか、何が物事の本質なのか、対象者の本音は何かを、生来の感性で嗅ぎ分ける能力が半端ないぞ、感じた次第。

  またトークの端々から感じ取れる彼女の強烈な個性は、両親や生まれ育った家庭環境から強く影響を受けているのか、好むと好まざるにかかわらず波瀾万丈な運命(脚本家になるまでの仕事遍歴、シングルマザーへの選択など)を引き受けたうえで、自分の人生はやはり自分で切り拓く他は無い、ということを強く感じ入ったところかな。

  盟友の作家・林真理子は中園ミホを評して「日本でたった一人の女の無頼派だ。才能があること、努力してることに、こんなに照れてる」と言い放っているが、まさに言い得ている。この1時間半のトークライブを視聴して同感の至りになったことを記しておきたい。
(参加者)M田、湯っ栗

②11/25(日)「砂の器」シネマ・コンサートin北九州インプレッション (於:北九州芸術劇場)
  松本清張記念館開館20周年関連イベントの真打となる上記シネマ・コンサートがリバーウォークの芸術劇場大ホールで開かれた。我々(withこだわり、K子)は三階席(A席)だったが、一階、二階席(いずれもS席)を含めてほぼ満席と、このコンサートに寄せる関心の高さがうかがわれた。但し、ざっと見て観客は我々世代以上が多いのは間違いなかろう。一方、前段で挨拶に立った北橋市長は、開演に至った関係者の労苦をねぎらいつつも、芸術・文化の振興を図ってきた市政への自負を滔々と述べてご満悦の様子だったが、この場の挨拶はそれに相応しいシチュエーションだったに違いない。

  でシネマ・コンサートとは聴きなれない言葉である。映画のセリフや効果音はそのままにして音楽部分だけを消し、それをスクリーン下の舞台に控えたオーケストラが生演奏するスタイルを言うそうな。もちろん初めて体験する鑑賞スタイルだし、映画の中でセリフと共に流れる加工した?音楽に比べ、生の迫力は如何ばかりか、ワクワク感は高止まりしたまま開宴を迎えたのは等しく会場全員の思いではなかろうか。もちろん同伴者二人も関心の高さは半端なく、過去の映像との比較を愉しみにしている様子がありありと。特にこだわりさんはこのコンサートの為だけに、わざわざ大分から馳せ参じたのだ。思い入れの強さが分かろうと言うものである。

  とそうは言ってもどんな映画もこの種のやり方ができるのか、となれば難しいのは筆者でも分かる。「砂の器」はその数少ない映画だったのを今更ながら思い知らされたと言っていいだろう。ストーリーの中で音楽が重要な要素となっているからで、まるでシネマ・コンサートのために作られた映画だったと断言しよう。

  それでも前半は刑事役の丹波哲郎と森田健作が殺人事件の謎解きに終始し、音楽の出番は少なく、あっても短い。おいおい音楽の露出はこんなものやったかと、数十年前見た(筈の)映画のシーンを思い出そうと記憶を辿った(がなかなか思い出せそうもない)。舞台を(三階席から)見下ろしながら、オーケストラの面々はけっこう手持無沙汰やねぇ、と思ったほどなのだ。但し、スポット的とはいえ生演奏の迫力と音のキレは大したもの。これははっきり言える。

  しかし20分の休憩を挟んだ後半(上映時間で言えば1/3ぐらい)は、「宿命」というタイトルの交響曲が初披露される演奏会のシーンが本命なので、俄然生演奏の出番が多くなり、殆どが重厚な音楽に包まれてコーフンのるつぼと化した。つまりは事件の全容を説明する捜査会議のシーンと、この説明に併せて父子の放浪シーンが描き出され、次に今は新進気鋭の作曲家となった殺人犯・和賀英良の「宿命」の演奏会シーンも捜査会議の進捗と同時進行する。

  もちろん演奏会シーンは父子の放浪シーンともシンクロして、三つ巴の映像が生演奏によって有機的に結びつけられたのだ。また捜査会議シーンでの丹波哲郎のセリフに音楽はない。それが切り替わった演奏会シーンではボルテージ高く一気に流れて、メリハリを作る。セリフと音楽の重なることのない絶妙な間の取り方が、素晴らしい。

  それにしても物悲しい放浪シーンの映像と子を想う親のせつなさや情念を目の当たりにして、それに追い打ちをかける生演奏の臨場感は涙腺の脆さを助長させるに充分だ。我が三階席の周囲は次第にすすり泣きが漏れ聞こえてきて参った。こっちまでそそられるのだ。そして仕舞いには涙脆くない輩は“非国民”かと思わせるぐらい、すすり泣きの大合唱となっては、誰に遠慮はいるものかと思ったほど。シネマ・コンサートの神髄はこんなところにあろうとは思ってもみなかったが、「砂の器」のストーリー性はもちろん、制作側とオーケストラが高いレベルで組み合わさり、最大限の効果をもたらしたことに相違あるまい。

 かくして3時間弱に及んだ一大スペクタクル劇は、豊潤な余韻を残して終演を迎えたが、う~んなかなかシネマ・コンサートやるじゃないか!映像と音楽のコラボがこんなにも人の胸を打つものか、とオドロキを隠せないでいる。そして音と映像の力に圧倒され、味を占めたからには、まだまだ人生の奥行を深めるに遅くはないぞと心に秘め、好奇心の幅を広めるにまっことタイムリーな観劇だったと反芻している。
(参加者)こだわり、K子、栗秋

写真上:中園ミホトークライブ案内パンフレット
    中:「砂の器」シネマ・コンサートのパンフレット。指揮:和田薫と ピアノ:近藤嘉宏は
       けっこう有名。オーケストラ演奏は九州交響楽団
    下:シネマ・コンサート 自席から終演後のアンコール時に撮影(手摺のガラス縁ラインが邪魔)
 

鯨墓に思う

 投稿者:こだわり  投稿日:2018年11月27日(火)09時04分3秒
  佐伯市中心部から上浦町に通じる国道沿線の傍らに「鯨墓」という案内表示があることが以前から気になっていた。鯨肉を食す機会がほとんどなくなった昨今、子供の頃大好きだったクジラの竜田揚げのことなども思い起こされるが、それよりも職業柄の鯨の農業利用などのことが思い起こされ、”鯨墓”と聞くと色んなことが頭をよぎる。

 “こだわり”の最近は、山が少々遠のき、仕事と仕事の隙間を利用して釣りなどに興じることが多くなった。別府湾ではアジが沢山釣れていた・・・つい最近までは。イルカやスナメリが入ってくるとアジがぱったり釣れなくなる。まして鯨ともなると直接アジを食うかどうかはともかく、大量のアジの餌を横取りしてしまうのは確かだろう。世界的には捕鯨(イルカなども含め)禁止の風潮だが、捕鯨を禁止した場合の鯨の増加に伴う漁業資源の減少は計り知れず、魚を食文化の主体に置く日本にとっても死活問題と言えなくもない。

 キャビアやフカヒレだけを目的にサメを大量捕獲して大量に海洋投棄する欧米などと違い、日本人は古来、鯨を廃棄するところなくすべて食糧や他の産業に利用してきた。「鯨一頭で七村潤う」と言われ、鯨が捕獲されると七つの村から人が集まり大勢の人がその恩恵に預かった。その感謝の意味を込めて、丁重に葬ったとされる。全国には鯨の墓が今でも沢山現存し、鯨墓の研究家も居るのは、その証である。

 さて、本論。日田市出身で江戸時代の農業研究者に大蔵永常という人が居る。「農具弁理論」「農業全書」などを著した。寛永や享保など江戸三大飢饉の原因ともなったイネの大害虫ウンカ(浮塵子、蝗とも)について、その書に鯨油駆除法というのがある。ウンカが大発生しないように神に祈る「虫送り」などという非科学的な方法でしか防ごうとする術のなかった当時の農民にとって、鯨は食糧や農機具への利用ばかりでなく、その油がウンカの駆除に利用できるというのは、画期的なことであり、科学的な農法の一つの出発点でもあり、その貢献は計り知れなかったろう。

 具体的には水を張った田んぼに鯨油を施し、箒などをもって稲の株元を敲いて株元にわんさか居るウンカ(トビイロウンカ、セジロウンカ)の成虫&幼虫を田面に叩き落として溺死させるというもの。根気の要る作業ではあるが、当時としては画期的なかつ効果的な方法だったと聞く。鯨油駆除法は今日では化学合成農薬や生物農薬に置き換わって久しい。郷里大分出身の農学者・大蔵永常に想いを馳せると、同業の道に身を投じて早や50年になろうとするが、忸怩たる思いがなくはない”こだわり”である。

 永常の出身地日田市と言えば、この掲示板の熱心な読者にも同郷が二人居る。そういえば以前、仕事で日田市に泊まり居酒屋に行くと必ずといっていいほど、鯨の刺身が出たものだ。永常と関係あるかどうかは別にして。

今朝は福岡市のドトールコーヒーで朝早くからねばっている。ふと、先日釣りの道中に立ち寄った佐伯市上浦の鯨墓のことが頭をよぎり、会議までのしばしの時間、鯨のことをあれこれ思いめぐらせた次第。どうか永常と鯨のことをこの掲示板の読者諸氏(と言ってもわずか数人だけれども・・・)も、この機会に昔懐かしい鯨のことを思い起こしてほしいものである。



以下はウキペディアからの引用
佐伯市から津久見市へ向かう途中、国道217号の佐伯市上浦町浅海井(あざむい)海岸通りで見た鯨の墓。佐伯市有形民俗文化財。昭和54年9月1日指定。
 HP「鯨文化:鯨を弔った鯨墓・鯨塚など」によるデータは、次のとおり。

   大分県佐伯市上浦町浅海井

 鯨魚塔Ⅰ 「南無阿弥陀仏鯨魚塔」「明治二十一年子旧正月十六日」「曾根角蔵網組」下の鯨魚墓と並んでいる。基礎を含めた高さ:130㌢、塔身の高さ:95,5㌢、幅:24㌢、厚さ:24㌢。方錐角柱。

 鯨魚墓Ⅱ 「南無阿弥陀佛鯨魚墓」「明治四十年十二月六日」上の鯨魚塔と並んでいる。約20メートルの鯨が座礁し入札で買取り生肉・塩漬けにして売ったとのこと。基礎を含めた高さ:139㌢、塔身の長さ85㌢、幅・厚さ:24㌢。方錐角柱。
 

小倉北区の離島・馬島へ島内滞在50分、慌しく駆け巡るの巻  (2018.09.14) 後編

 投稿者:湯っ栗  投稿日:2018年11月23日(金)16時06分30秒
   さぁ次はどこへ行こうか。まだ30分弱の猶予があったので、今度は島の北東側海岸を目指した。集落の外れの急坂を上ると小さな峠を越し、東側の低地へ一気に下ったが、坂の途中左手の斜面は一面のネギ畑。下りきると南東側に開けた浜一帯は草地が広がった。誰もいない初秋の浜は潮騒を背に身を委ねて時は流れる・・・なんて感傷に浸るようなシチュエーションとはちょっと違った。と言うのも対岸は小倉、戸畑の工場地帯。大きな建屋やクレーン、煙りたなびく煙突群などが否応なく目に入り、離島に来て非日常の中に身を置く、と言った感興には至らなかったから。

 一方 草地の北側は背丈の2.3倍はありそうな草木がまるで葦原?みたいに茂り、それを潜り抜けると小さな入り江に出た。こちらは人工物は何もない海原が視界を占め、湾の右手奥に六連島の西端島影も見える。野暮な遠景とは無縁で、プリミティブな景観が広がった。狭いながらも静かな浜ではキャンプもできそう。う~ん、こっちはプライベートビーチ然としてアウトドア志向を高めるに充分じゃないか、とは筆者の感想。K子さんはもっと具体的に「寝っ転がってビールでも飲みながらボッーとするのに最高の浜やね」と。まぁ表現は違うが、同じ意味だよねぇ、としておこう。

 さてまだ残す時間は20分余り。港(集落)方面へ引き返すしかなかったが、くだんの小峠から更に高台へ、急坂のコンクリ道があったのを往路で認め、気になっていたのだ。もちろん相棒殿も興味を引いたらしく自転車は脇に置き、あうんの呼吸で高みへと取ったが、短いながらもまるで攀じ登るような急坂を、よくぞこしらえたものだなと感心しきり。そして上りきると、給水タンクらしき物がデンと現れて、大仰な設えにちょっとびっくり。なるほどこれが集落全体の上水道を賄っているに違いなかったが、どこからこの水は運ばれてくるのか、一瞬の疑問がよぎったのは後付の感なきにしもあらずか(※)。すぐに高台から360度の眺めと、ここでも立派に手入れされたネギ畑が台地いっぱいに広がっていたことに関心が移ったためだが、特にネギ畑は島内の耕作可能な平地のいたるところで栽培されており、島民の手慰みと侮ってはならぬぐらいに盛んだったのだ。つまり自給自足の範疇ではなく、その殆どを本土へ出荷する一大産地だったとはツユ知らず。まさに実地の社会科学習であったが、わかめとネギが馬島の二大産業だと分かっただけでも訪れた価値があったというものである。

 最後は一旦集落に戻り、大山祇神社が建つ丘陵を廻り込んで、北西海岸の探索を試みた。しかし地図で判読するまでもなく、入り江の先に広がるネギ畑までは容易に行けたが、その先は踏跡も途絶えて、折り返すしかなかった。その意味で島民の行動範囲は漁港周辺の集落から四方へ延びた“あぜ道”を辿り、方々のネギ畑までであって、我が50分の探索行もその範疇に留まったことになった。それでも時間の許す限り精一杯、この島の見聞を広めたことには違いなく、自らにアッパレを進ぜようと気負ったが(笑)、K子さんの表情も同じ思いと書いていた筈だ。

 ちなみに島の北岸一帯は岩礁が多く、波で浸食された磯にはたくさんの貝の化石が見られると言う。これは隣の六連島や西に浮かぶ藍島の北西岸、それに馬島の南東延長線上にある彦島西山海岸の化石層とも年代や貝の種類など相通じるものがあり、新生代の地層が繋がっていたことを物語っている。これまた太古の時代に思いを馳せロマンを感じるに足る話であって、馬島に限らずとも離島探索のメニューはバラエティに富み、興味は尽きない訳である。

(※)かつて馬島では井戸を掘り、生活用水として使っていたが、井戸水の水質はよくなく飲料水は島民が船で戸畑より搬入していた。しかし重労働の上、悪天候時は搬入できないなど生活用水確保が課題であった。また馬島と本土間の海域は国際航路を掘り下げる計画があったため、海底送水管を布設することができないという事情もあった。

 これを打開するため、北九州市と下関市の両市町が平成12年8月のトップ会談で、下関市から北九州市へ市の区域を越えて水を分けること(分水)について合意し、平成16年4月1日に両市水道局間で分水契約を締結。同日から分水を開始した。県境を越えて水道水を供給する方法は、下関市六連島に送水している海底送水管を六連島から分岐し海底送水方式によった。(by下関市広報誌「Water Talk」Vol.33 より)

(参加者) K子、栗秋
(コースタイム) 自宅13:41→(R199経由)→小倉・藍島&馬島渡船乗り場13:57 14:30⇒(船)⇒馬島14:53 15:43⇒(船)⇒小倉港16:07 17→自宅16:41
 ブロンプトン走行 13.6㌔

写真上:島の東部、南東に開けた浜から小倉の工場群を見る
  中:プライベートビーチのような北岸の浜
  下:集落に戻ると民家の庭先は猫の溜まり場になっていた。まさに猫の島だ
 

小倉北区の離島・馬島へ島内滞在50分、慌しく駆け巡るの巻  (2018.09.14) 前編

 投稿者:湯っ栗  投稿日:2018年11月23日(金)15時49分43秒
   まもなく師走、早いものです。但しここ1ヶ月弱は殆ど病院との往復のみで時の流れは遅く感じますし、行動ルポの材料も皆無。そこで引きこもりに任せて、以前の記録の肉付けを行ってます。その中の一つとして、まったく旧聞に属する話で恐縮ですが、2ヶ月以上も前、初秋に小倉北区の離島、馬島へ自転車探索行を行いました。おっと探索とはちょっと大袈裟ですね。初上陸の島ゆえ物珍しさもあって、島内をうろうろしました。その時の行動ルポを前編と後編の2回に分けて掲載します。まずは前編をば!

 ぐずぐず秋雨前線のせいで、ここのところすっきりした晴天が望めず、アウトドア志向の熱も停滞気味だ。そんなトーンダウン性向を打破しようと、岳友・K子さんと午前中の戸の上登山を画策した。しかし集合時刻が近ずくと小雨バラバラと無情の空模様にして稜線はガスがかかり見通しも悪い。お互い降られてまでも登ろうとは思わず、あっさりと断念したのは言うまでもない。ところがしばらくすると小雨は上がり、曇天ながらも西の空は明るくなってくるではないか。お天道様は我が心を見透かすように戯れるのだ。するとほどなく「山は止めて自転車で藍島か馬島へ渡りましょう!」と相棒殿から連絡。岳友から輪友に早変わりして、山から海へ、にわか変更案を提案してきたのだ。

 もちろん否とはいくまいが、今から適当な船便があるかどうかだ。慌てて調べてみると小倉港発は10時30分発・・・あと20分しかなく間に合わない。その次は14時30分発。一日3往復しかなく、取り敢えず午後の便で行ってみようと決めたのだ。しかし午後便では藍島での着発は25分しかなく、成り行き上、手前の馬島しかなかった。がそれとて着発50分ポッキリか。う~ん、それでも馬島は未踏の地。行くしかあるまい!と腹を括ったのだ(大袈裟かな?)。

 さて馬島である。ウィキペディアに拠ると面積は0.26 km?. 海岸線長 5.4 km. 最高標高点 34 m.で、標高20m程の丘陵が連なる台地状の有人島。2015年の国勢調査で人口は31人、世帯数は11世帯。 福岡県の有人島の中では人口・面積ともに最小。島の南部に漁港があり、家屋が集中する、とあった。

 つまり500m四方の土地に三年前は31人が住んでいた勘定。人口密度は119人/km?.となるが、上陸してざっと見渡したかぎりでは今はもっと少ないようにも感じた。小倉の市街地からわずか20分。便数さえ多ければ洋上通勤にしてベッドタウンにもなり得る位置に浮かぶ島だが、微妙なところで過疎と至近に都会を控えた利便性が同居しているような不思議な島に思えたのだ。ちなみに島への航海中、右手に長々と横たわっていた下関市の彦島は人口密度2,673人/km?と、比較するのがナンセンスなぐらいの都会だし、やっぱり馬島はまごうことなき離島に違いなかろう。

 でその証は渡船にあって、藍島&馬島航路は人(手荷物含む)しか運ばない。よって航送規約上、車はもちろん自転車も積めない。そこで折り畳み自転車のブロンプトン号にK子さんは久々のバイクフライデー号の出番が回ってきた次第。袋に入れ手荷物扱いならオッケーという訳だが、藍島&馬島に自転車を持ち込む場合は要注意なのだ。

 おっと本題は別にあって、氷解した疑念が一つ。7年前の初秋、藍島へ初上陸した際、ナンバープレートのない車ばかりが我が物顔で走っていて訝ったものだが、今回、馬島でも同じだったのだ(但し車が走れるような道路は港沿いにわずかしかなかったが・・・)。島内の道路は公道とみなさず、私道扱いなら、道路交通法は適用外だし、車は免許も車検も要らず治外法権と相成る。その裏返しが本土から車が持ち込めないように、人専用の渡船しか運航できないようにしているのではないか・・・とは己の勝手な推測だが、(これが正しいなら)腑に落ちる理屈かなぁ、と反芻している。

 さてしばし洋上からの眺めを愉しんだ後、上陸すれば素早く自転車を組立て、島内探索へと急いた。狭い島とはいえ正味50分もないのだから悠長に構えている訳にはいかないのだ。先ずは漁港前のコンクリ道へと乗り出すと、ナンバーなしの軽トラを一台発見。なるほど港に沿って100mほどは車が走れる道幅があり、ここが島の幹線道といった趣だが、人っ子ひとり見当たらないし、店らしきものもない。すぐ内陸方面?の4.5軒家並みが連なる軒先道へ入ると、もう軽トラがやっと入れるほどの道幅になり、その先は畑へと繋がるあぜ道へと化した。つまり車や自転車の出番はこの島では殆どないということか。

 そして家屋の先の畑で農作業に勤しむお年寄り2.3人が島内で初めて見た住人だったのだ。向こうも変なおじさんが二人、自転車で現れれば、奇異な視線を寄こそうというものである。しかしたじろぐ場合ではなく、その中のお婆さんへ「何か海産物はありませんか?」とは相棒殿の弁。畑にいる住人へ「海産物」はなかろうが、島だからこその問いは可笑しくも有りだ。すると「ひじきの冷凍ものならあるよ」とのこと。おそらく海藻類は期待していなかった(筈の)K子さん、急にトーンダウンした声で「帰りに寄りま~す」とは要らない意思表示とみたが・・・・案の定だったことを記しておこう。

 ちなみに馬島の特産は「小倉 馬島 春わかめ」の名称で5.6年ほど前から立ち上げている天然もののわかめ。島のまわりは潮の流れが速く、海藻類が豊富で、住民は昔からわかめやひじき等を自分たちで加工して食べていた由。「ひょろっとした養殖のわかめと違い、荒波に負けず岩場に根を張った天然ものは肉厚で立派」とは北九州漁業協同組合馬島支所の宣伝文句だ。しかし魚介類にはまったく触れていないので、魚や甲殻類の目立った水揚げはないと考えるのがまっとうだろうよ、K子さん!

 で島の内陸部?へ分け入り、たとえあぜ道でもどこまで続いているか探索は必要だ。先ずは島の北西端方面を目指して小径を進むと丘陵の崖下と思しき地点で踏跡へと変わった。歩けないことはないが、自転車は無理。引返して集落へ戻り、更に探索を進めると今度は鳥居と石段を発見。小高い丘の上にひっそりと構える大山祇神社だ。急な石段を登ると古びた社が現れたが、何の変哲もない設えの中、目を惹いたのは拝殿の左、狛犬のかわりに先の戦争の際に投下されたものらしい砲弾が鎮座しているのだ。いったいこれはどういう意味なのか、まさか奇をてらった訳ではなかろうが、意味深ですね。とまれうらびれた雰囲気が漂う中、少ない氏子衆で切り盛りしていくのは大変だろうなぁ、といらぬ心配もしてしまったが、清掃はきちんと行き届き、島民の律儀な思いが伝わったことは書き留めておきたい。

写真上:馬島 実地踏査図(赤の破線は自転車及び歩行の軌跡。数字は標高を示す)
  中:小倉港から20分で馬島港に入った
  下:大山祇神社の左手に狛犬ならぬ砲弾が鎮座
 

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