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歴史講演会「北九州市内の戦争遺跡について」を聴講し鷲峰山に登るの巻 後編(2019.02.09)

 投稿者:湯っ栗  投稿日:2019年 2月13日(水)15時15分25秒
    さぁ雨は上がったが北風が冷たい。今日はまっすぐ帰ろうか、と言う段になって唐突にK子さんは「小倉南区の鷲峰山に登ろう!」と宣ったのだ。言いだしたら反応の有無にかかわらず、なかなか諦めないのが彼の身上であって、この粘り強い性癖がこれまでの人生を切り開いてきた、と言っても過言ではなかろう(笑)。とそれはともかく2/3が反対票を投じれば決定権は我々に有り!なのだが、その空気を読んだのか今回、彼はしおらしく諦め顔だ。となるとそんな簡単に、ちょっと調子狂っちゃうなぁ・・・と思わぬでもないか(影の声)。そこで「え~い、なら行きましょうぜ!」と発すると、たちまち笑顔が戻り、どんぐり眼が輝くに至って、彼の作戦勝ちだったのを悟ったのだ。

  で何故唐突に鷲峰山なのかである。講演会でこの山に高射砲陣地があったことは初めて知ったが、キッカケはそれではなく、以前から温めていた由。小倉北区との境にあるこの山は頂(136m)に白い大きな観音様が建立されていて、過去、この付近を通るたびに気になっていたと言うのだ。するとM田君も「守恒~城野間のモノレールからもよく見えますよ」「モノレールは見晴らしがいいからねー」と宣伝も怠らない。

  知らなかったのは湯っ栗だけ。地図で調べると山頂には公園があり、東麓から1.4㌔の登山道(遊歩道)がうねうねと紆余曲折しながら山頂まで延びている。登り口が分かりづらくちょっと迷ったが、登路(入口に進入禁止の枠があるが、舗装した車道)が分かれば一本道で迷うことはなかった。この時も市民ジョガーやウォーキングに青少年のトレーニング場面とも遇って、この遊歩道は市民に親しまれ活用されていることが分かった。喜ばしきことであって、彼等に声援を送りながら自然林の中のトレッキングもまた愉しだ。

  麓から15.6分でだだっ広い頂上に辿り着いたが、先ず目に付いたのが、威風堂々とした観音像。高さ17mの白亜の像はこの辺り一帯のランドマーク然として威光を放っているが、1966年に平和を願って有志の寄付で建立された由。頂上公園には満州の部隊に対する慰霊供養碑もあったが、何故満州の部隊なのか、北方歩兵連隊から出兵した兵士の慰霊碑なのか、説明板を見落としたのは、にわか戦跡探究の徒としては、いささか失態を演じたなぁ、と反省しきり。

  一方で頂からの眺望は申し分なしと言っておこう。北方は本州の山々や響灘にはしっかりと蓋井島の島影も認めたし、東方には市街地の向こうに平尾台の北端・貫山からなだらかに下った先、お椀のような豊前松山(128m 山城跡があり未踏の山)と、その北には曽根干潟に浮かび、大潮の時期に歩いて渡ろうと画策中の間島(41m)もちょこんとその突起が確認され、おぉあれかぃ!と胸躍った。戦跡や中世の山城探訪に秘島巡りもせにゃならんし、胸算用は忙しげなるも胸中のこと。しかし相棒二人のかしまし談議は山頂だけに留まらず、登りも下りも途切れることはなかった。そこに山にあるから登ろうよ、とシンプルにして静寂さを求めるには、いささか無理なキャストであったか。まぁいつもと変ることはないのだけど・・・。
(参加者) K子、M田、湯っ栗

(コースタイム) 自宅(門司)11:45⇒(牟田車・砂津~到津~旧電車通り経由途中 七条にて昼食)⇒いのちの旅博物館13:15(北九州市の戦争遺跡について講演会聴講)15:45→イノベーション・ギャラリー15:52 16:35⇒(車)⇒鷲峰山登山口16:56 58→鷲峰山17:14 27→登山口17:40 44⇒(車・競馬場前~三萩野~砂津経由)⇒自宅18:15
写真上:鷲峰山中腹から市街地(競馬場も真近に見える)と貫山方面を
    中:山頂は公園になっていて広々空間に平和観音像が鎮座している
    下:市街地を隔てて企救山地(足立山~戸の上山)を臨む
 
 

歴史講演会「北九州市内の戦争遺跡について」を聴講し鷲峰山に登るの巻 前編(2019.02.09)

 投稿者:湯っ栗  投稿日:2019年 2月13日(水)15時12分8秒
    ちょっと暖かくなったり、急に北風ピューピューと縮こんだりと、日本海式気候の門司は煩雑に天気が変わり、豊後の国の冬の晴天が羨ましいところ。しかしめげてばかりもおれず、しかも今週末はフルマラソンも控えて、体調管理にもっとも気を遣わなければと用心していたのに、一昨日あたりから扁桃腺が腫れて難儀してます。どうなることやら?が目下の心境です。

  とそれはそれ、先週の土曜日、標題の講演会に行ってきました。その帰りに近くの里山にも唐突に登ることになりルポとしました。そんなに長くはないのだけど、講演会部分とトレッキング部分の2回に分けて書き込みます。以下前編です。

  輪友のK子さんから講演会のお誘いがあった。標題の「北九州市内の戦争遺跡について」は少なからず興味惹かれる演題じゃないかと食指が動いた。講師は特定非営利活動法人 北九州市の文化財を守る会理事長の前薗廣幸氏、もちろん知る由もない御仁だ。会場の八幡東区東田のいのちの旅博物館は、東田シネマの隣、東田の中核施設だが、バイクエクササイズにちょうどいい距離。とそれはともかく(こんな講演会を)よくぞ見つけてくるもんだ、といつも感心しきりだ。もちろん自転車にも市内の歴史探索にも興味旺盛な若頭・М田君も誘った。

  ところがいざ出発という時になって雨が降りはじめ、さぁ困った。一部強硬派長老の意見(そのうちに上がるので濡れて参ろう!)を押し切って車上(M田車に便乗)の人となったが、これは正解。途中、旧電車通りは七条で昼食を摂り、会場入りしたが、着くまで小雨が降り続いたもの。

  で前薗氏の講演はけっこう精緻を極めた。資料は12頁ものだったが、1~2Pの「時代別、区分別戦争遺跡数および明治期の下関要塞概要」と11~12Pの「特攻艇基地跡・蕪島、軍艦防波堤等」の4頁分のみ添付した。さて資料から分かるように戦跡は大きく二つ、明治期と昭和期に造られたものに分かれる。

  前者はロシアや清国の脅威に備えるべく、主に下関要塞群として関門海峡に沿って砲台や保塁(砲台を護る施設)が造営された。北九州市側で言えば和布刈、古城山、矢筈山、笹尾山、手向山、富野、高蔵山にその跡が残っている。湯っ栗も笹尾山と高蔵山以外は曾遊の地で、下関側の要塞群と併せて海峡を睨んできたのは大方の市民の知るところだろう。

  一方、後者(昭和期)は大正12年の関東大震災で東京の陸軍造兵廠が壊滅して、その代替地として小倉に造られたことで軍需産業の都ととして発展したことや、基幹の八幡製鉄をも含めて日本屈指の要衝の地だったことを思い浮かべれば、当然のこととしてこれらを防衛する意味から北九州周辺には高射砲部隊が数多く配置された由。

  もちろん米軍の飛行機の脅威に備えたものだが、敗戦が色濃くなるに従い物資不足で、コンクリートの保塁は造れず土塁で陣地を築いたり、響灘の島の砲台や高射砲台は米軍の九州上陸に備えて本土沿岸部へ移設したりの変遷を経ている(藍ノ島砲台は昭和18年6月に、白島砲台は昭和20年5月に撤去移管命令が出されている。また先月訪れた下関は蓋井島の疑似砲台なども戦況悪化に伴う物資不足などを物語る貴重な遺跡といえる)。

  湯っ栗の認識としては明治期の下関要塞群のあらましは、実際にこの目で見た箇所も多く馴染み深いが、昭和期に築かれた高射砲陣地等の情報には疎かった、と今更思う次第。足立山(砲台山)や小倉南区の鷲峰山(図らずもこの講演会の帰途、山頂まで登ったが、戦跡は分からず)、若松区の石峰山や弥勒山(2/1に登ったばかりだったが、この時は陣地があったことさえ知らず(※1))などの山岳地の他、平地にも多数造られたが、敗戦直後に、軍により施設は破壊、関連の機密文書は焼却されたと言う。近代史で言えば直近のことなのに、全体像が分かりにくくなっているのは敗戦ゆえの理由が大きかったとは。有史以降、国破れれば歴史残らずとの謂いは言い得ている。

  新たな発見はまだあった。資料1Pの昭和期に造られた施設区分に「特攻」の基地跡が一つあったのが気になっていた。講演が進む中で(資料10Pから11P参照)、特攻兵器四式連絡艇基地跡・蕪(かぶら)島に話が及んだが、蕪島とはどこ?いわゆる人間魚雷の秘密基地が北九州の沿岸にあったといういう事実が興味をそそったのだ。もちろん実戦には至っていないと思うが、講演終了後前薗氏に伺うと周防灘に面した門司の大積から喜多久に繋がる岬に蕪島(島ではなく岬)があると言う。

  但し今は私有地につき勝手には入れない(らしい)とのこと。う~ん、探索が難しければ、余計見に行きたいのが人情である(※2)。と湯っ栗の心はくすぶり続けている(笑)。とそんなこんなの2時間はアッという間に終演となり、話の中で未知の戦跡群に興味をそそられたのは言うまでもなく、「今日用」の行先地として新たに加わったのは言うまでもない。お二人殿、相違なかろうねぇ。

(※1)2/10考察(湯っ栗⇒K子)若松の石峰山北の高射砲陣地跡は、ネットで戦跡地図を見ると、2/1石峰山頂から北側へ登山道を下り(最後は自転車を担いで降りた)直下の林道に出ましたが、その林道に出会った地点の北側斜面がおおよその位置らしいです。また弥勒山の山頂には6門の高射砲陣地があったとはツユ知らず。事前に知っておればちょっと探索できたのに、と地団駄踏んで悔しがっております(笑)。
(※2)なんと2日後の2/11、探究心旺盛なK子さんは闇にまぎれて(まさか?)単独で蕪島侵入を試みたが、島(岬)へつづく海岸線は絶壁か阻み断念した模様。「ボートか泳いで行くしかないばい!」と、彼が添付のイラスト図右下に描いた絶壁の様子がそれを物語っていましたね。まことにすばしっこく油断ならぬ行動力には恐れ入るしかない(笑)。

写真上: 講演資料1~2P(時代別、区分別戦争遺跡数および明治期の下関要塞概要)
    中:講演資料11~12P(特攻艇基地跡・蕪島、軍艦防波堤等)
    下:北九州市内の戦争遺跡の概要と鷲峰山登山を語るイラスト図(by k子)
 

若松半島 石峰山地 縦断byMTBの巻 その2(アート編)(2019.02.01)

 投稿者:湯っ栗  投稿日:2019年 2月 8日(金)21時38分3秒
    もう一つ付けくわえると、このトレッキングを企画したK子氏の行動持論は「エクササイズ&アート」の旅だ。今回も忘れる筈はなく、白山下山後は若松区西端にある学術研究都市を目指した(西の果てまでけっこう時間がかかったぞぃ)。して目当ては域内の現代美術センターCCA北九州で開催中のハミッシュ・フルトン展(※4)。概要は脚注に譲るが、展示した作品は二点のみ(写真参照)。筆者には理解遠く及ばずだが、インドア密室空間で紡いだものより外界の空気に触れ、森羅万象からヒントを得て作品に至る方が、健全な精神が宿った作品になっているじゃないか、と味方したくもなる。

  そこで思い出したのは(私事で恐縮だが)、所属する山のいで湯愛好会の機関誌『おゆぴにすと』の巻頭に記された岳友・Tさんのコラム「おゆぴにすと・・・その由来と解説」に出てくる次のくだりだ。
「前略~英国の有名な旅行家の言葉に『風景を楽しむのに理解はいらない。しかし広大な自然の美を味わうためには鍛錬が必要だ。まず逞しい身体。次に豊かな感受性を保ちながら熟視する態度。そして科学的な能力の取得。これらの条件を身につけた者は、風景の巡礼者になれる。大自然の美を礼賛することができる』とあります~後略」

  ハミッシュは雨の日でも山野へ出かけ感受性を磨き、鍛錬を怠らないという。まさに風景の巡礼者たる素養の上に彼の作品群がある訳で、親しみと畏敬の念も湧こうというもの。直ちに“おゆぴにすと”の特別会員に推挙したいくらいだったが、生憎本日はこの会場に詰めておらず、皿倉山あたりを歩いているんじゃない?とは学芸員嬢の弁。折角の機会を逃してしまったが、世の中にはいろいろと変った人がいるもんだなぁ(笑)、と感心することしきり。そしてよくぞこんな展覧会を見つけてきたもんだ、とK子氏の好奇心と行動力にも感心するばかり。おかげでMTBの総走行距離は54㌔を超し、心地よい疲労感に包まれたが、アベレージは12km/h余と若松半島の山中を駆けずり廻り、一部悪戦苦闘したシーンがしっかりと反映され、愛おしくもあったなぁ。

(※4)今月8日まで開催中。ハミッシュ・フルトン(1946年イギリス生)の作品は、特定の場所を歩いた経験から制作され、歩くことで得たインスピレーションを作品としてアウトプットする。自分自身を「歩くアーティスト(Walking artist)」と呼び、旅の途中で写真を撮り、記録を書き留め、それを作品の中に取り入れることで自らの経験と観客を結びつけている。今回 彼は、四国八十八箇所の45番札所、海岸山岩屋寺近くに滞在し、愛媛県の久万高原町を14日間歩いた。この付近には古岩屋と呼ばれる、約2000万年前の地層が残る巨大な奇岩群があります。第44番札所、菅生山大寶寺から岩屋寺に続く遍路道の途中にあり神秘的な風情をたたえヒントを得たとある(by 現代美術センーCCA北九州プレス リリース資料より)。

(参加者) K子、栗秋
(コースタイム) 自宅(門司)9:08⇒(砂津~大門~戸畑経由)⇒戸畑渡船場9:59 10:11⇒(船)⇒若松渡船場10:14 15⇒(サンリブにて昼食調達10:17 23)⇒高塔山(122m)10:40 47⇒仏舎利塔(131m)10:52 57⇒高塔山霊園入口10:59⇒菖蒲谷分岐11:11⇒健康峠11:16⇒石峰山(303m)11:35 48⇒藤の木への分岐11:57 58⇒のろし台展望台(280m・昼食)12:00 16⇒岩尾山方面との分岐12:22 24⇒弥勒山への分岐12:35 37→弥勒山(194m)12:48 51→分岐12:59 13:00⇒ハザマ峠13:04⇒白山神社下13:07 08→白山神社13:15 18→白山(171m・上宮)13:24 28→白山神社13:34⇒沖津宮13:36 40⇒学術研究都市・現代美術センターCCA北九州(ハミッシュ・フルトン展)14:13 30⇒(R199経由)⇒若松渡船場15:12 18⇒(船)⇒戸畑渡船場15:21 26⇒(戸畑~大門~砂津経由)⇒門司稲積・某所(小宴)16:08 17:50⇒自宅17:52    自転車走行 約54.3㌔

写真上:ハミッシュ・フルトン展で展示物 その1
    下:ハミッシュ・フルトン展で展示物 その2
 

若松半島 石峰山地 縦断byMTBの巻 その1(トレッキング&自転車編)(2019.02.01)

 投稿者:湯っ栗  投稿日:2019年 2月 8日(金)21時34分31秒
    輪友・K子氏より若松半島縦断トレッキングの誘いがあった。もちろんアプローチは自転車で、エクササイズがてら断る手はない。但し二人とも未知・未踏の山域なので予備知識は殆どなかった。そこで北九州近隣行脚の拠所として重宝している海鳥社刊の「北九州の山と自然」や「北九州を歩く」を眺めると、玄海遊歩道なるものが東の高塔山公園から主峰の石峰山、更には西の弥勒山を経てグリーンパーク(響灘緑地)北門に至るまで12㌔にわたって整備されていることが分かった。そして文脈から判断するにこの遊歩道の大部分は林道の体裁を成しているようだ。すなわち森の中の小径を自転車で距離を稼ぎ、走行そのものを愉しむことも可能ではないか、と思えたのだ。もちろん山頂部分や急勾配のトレイルは必要に迫られて押すなり担ぐなどもあろう。それはそれで変化に富んでなお宜しい。こうなりゃ矢でも鉄砲でも何でも持って来い!と気炎を上げつつ(笑)如月初日を迎えたのだったね。

  ところが当日は寒波が居座り季節風も強く、出立時は気温5℃、戸畑の渡船場まで向かい風に苛まれて、なかなか身体は温まらずけっこう時間もかかった。しかし山に入れば抑えても汗もかこうし、向かい風も追い風もなかろう。

  で最初の関門は高塔山公園(122m)までのヒルクライムだ。特に市街地から200mほど続くのっけの激坂はギヤをフロントはインナー、リアはアウターに落としてゆるゆると確実に上った。4年前の秋、ブロンプトン号で攻めた際は必死の形相で何とか踏ん張った記憶が蘇えった。しかしその時と比べると余裕綽々だったのは機材の差(ギヤレシオの差)に尽きよう。とそれはともかく高塔山展望台からの視線はどうしても北方、響灘の島々に注がれるわね。手前から馬島、六連島、藍ノ島、白島は男島と女島、やや遠方に蓋井島を認めればニンマリするしかない(笑)。嗚呼、麗しの島影群だ。

  その一方で本日のメイン、西方は若松山地の主峰・石峰山方面を仰いだが、ピークの判別は鈍重な山塊ゆえ分かる筈もなかった。まぁしかし仏舎利塔(131m)(※1)に立ち寄った後は、いよいよ若松山地へと分け入ろう。塔からは一旦、か細い踏跡を下り舗装道に合流するとすぐ分岐。右折入口に「玄海遊歩道・石峰山2.3km」の標識があり迷わず右折すると高塔霊園に入った。コースはこれを突っ切るかたちで徐々に高度を上げていくが、自転車で攻めるに最適じゃないか。しかも左手(南側)は洞海湾を眼下に、皿倉山系もその先に仰ぐし、片や右手(北方)は響灘工業団地と海上にはくだんの島影が散らばる。ベストビューの道なり300mほどで常緑樹林帯へ入り、舗装路から土道へと変ったが、緩やかな勾配とよく整備された幅広林道が霊園入口から1km弱続き、次の分岐点に達した。身体も温まり、ここまではまさにルンルン気分の林道ライドであって、想定以上に愉しきコースだったのだ。きっと己の表情はニンマリにしてどや顔だったに違いない。

  さてこの分岐は指導標に従い迷うことなく西進しよう。林道から山道へと趣は変わったが、次の菖蒲谷分岐までは森の中、よく整地された尾根道が緩やかに下っている。ならば引き続き自転車に乗ったままで楽チントレッキングに興じるしかなく、あっという間に分岐点に到達してしまえば、何だか申し訳ないよなぁ、とお互い顔を見合わせたほどだったのだ。

  但しここからは山頂手前100mの林道出合まで登り一辺倒の登山道が続き、さすがに潔く降りて押すしかなかった。そしてそれも山頂が近くなると傾斜も増し、岩ゴロゴロの登路と相俟って持ち上げたり担いだりと自転車はまったくのお荷物となった。しかしながらこれまでの恩と先々のために愛おしく扱わねばなるまいね、分かっていますとも。

  一方でそれまで嬉々とした表情で愛機を操ってきたK子氏も悪戦苦闘の様子。ちょっとの辛抱はやがて愉しみに変わる。楽あれば苦もありだ。
閑話休題、高塔山から正味40分ほどで到達した主峰・石峰山(303m)の頂はカヤトが茂り、だだっ広い草原の趣で、運動会も出来そうな平坦な地だ。もっともその中央には北九州消防局の無線中継塔がおおぶりな設えで占拠して、周囲の林と相俟って見通しづらい。かろうじて南東から南西方面が開けるが、その方面は洞海湾に皿倉山から遥か福智山まで、やや右手には逆光の遠賀平野も見渡せるので展望は及第点だ(としよう)。

  さぁひとまず主峰を踏み目的の一つはクリアできたが、まだ弥勒山と白山を登り終えずして完結とは言えない。(おっとその前に忘れちゃいけない、昼飯タイムはどこで摂るの?・・・と誰ちゃ云わんが物申す者約一名有り!)。よって二人の関心事はそのアプローチ、下り基調の玄海遊歩道がどんなシチュエーションで迎えてくれるかにあった。地図で見るかぎり実線が紆余曲折しながら弥勒山の中腹をかすめ、白山神社参道下へ繋がっている。記載上の約束事では林道以上、車道以下のトレイルの筈だ。もちろんこの希望的観測をK子氏に伝えると半信半疑の面持ちながらも、次第に表情は輝いてきて、得意のダウンヒルに思いを馳せつつあるのが分かった(もちろんその前に主峰から1kmほど下ったのろし台(※2)で昼食としなくては・・・これも大事な約束事やった)。

  さてのろし台の展望も秀逸だったが、トレイルも思惑どおり。ダウンヒルの愉しみここに有り!と言っておこう。石峰山からのろし台を経て弥勒山々腹までの玄海遊歩道はまさに絵に描いたようなオフロード林間道だったのだ。多少のアップダウンはあったが、常緑樹林の森や竹林を縫い、たまに開けた山腹からは響灘の蒼さが目に沁みた。もちろん方々の分岐で立ち止まった以外は自転車から降りることはなく、変化に富んだワインディングロードを気持ちよく駆け下ることができたのだ。そしてこの林間道も途中から舗装路へ変わると、更に速度が増すのは道理。勢い余って弥勒山(194m)への分岐(登山道)は見失うくらいだったが、かろうじてセーフ。のろし台からの時間距離はめっぽう近かったが、もちろん歩きと自転車ではウサギとカメだもの、納得しきりだったね。

  で山頂往復は自転車をデポし、トレッキングに切り替えたが、片道550m、所要10分余で到達した頂はこれまただだっ広く、周りはタブノキやカシ、ヤブツバキなどの常緑樹林で覆われ、展望はまったく利かなかった。霊験新たかな弥勒菩薩の慈愛にすがるには余計な展望などいらぬわぃ!とこじつけたが(笑)、本意は別に有り。この登路の序盤、竹林途上で突然ゴツン!と頭上に横たわった孟宗竹と相まみえてビックリしたのだ。K子氏の後に続き、ロクに前を見ていなかったのが原因だが、痛くも痒くもなかったのはヘルメットを被ったまま慌しく登路に就いたこと。このご時世か荒れて久しい山林でたとえ倒竹木と喧嘩に及んでもこのスタイルは我に分が有り。まさに自転車を絡ませたトレッキングだからこそ、その恩恵に預かった訳だが、特に齢を重ね反射神経が鈍りかけたおじさんたちは(山歩きでも)極力ヘルメットを被って歩きましょうぜ、と訴えて教訓としたかったのだ。決して失敗を正当化しようとか覆い隠そうなどとは思っていないからね(笑)。

  さぁ次は谷を挟んで北西1kmに位置する白山(しらやま・171m)登頂を残すのみとなったが、もちろん登山にヘルメットは必須にして忘れるべからず。実際、中腹の白山神社(※3)下宮まで参道を喘ぎ喘ぎ(自転車を)担ぎ上げたものの、そこから上宮(山頂)は登山の領域。剣呑な修験道の荒れた山道を辿ったが、踏跡は不安定で足元は危なっかしく。云われずとも(ヘルメットを被り)学習効果があったのは言うまでもない。

  かように未踏の若松山地の殆どを自転車走破できたことに相棒殿はことのほか喜び、盛んに「今日の“山歩き”はよかった、満足した!」「こんなに充実した“山歩き”は最近なかった!」と繰り返し宣った。その言質を紐解くと門司からのアプローチを含め、本来トレッキング覚悟の縦走区間(玄海遊歩道)を、けっこう自転車で行けたことと、その行程が思いのほか愉しかったことに起因すると見た。もともと彼は快適なサイクリングロードなどを走るよりも、オフロードの山道などをじわじわコツコツ、時には敢然と走る方が好きなのだ。

  その意味では野生児の側面を色濃く残してきたが、齢を重ねるにつれ、そんなシーンも縁遠くなってきたのも現実だろう。とそんな思いの中、久しぶりに志向する“山歩き”ができたことの感想だったに違いない。もちろん(若松山地縦走の)言いだしっぺは彼で、己は少しだけ予習をしてくっ付いて行っただけ。それでも喜んで貰えれば、これに優るヨロコビはなかろう。

(※1)1956年に人類愛と平和国家建設を願って建立した宝塔には、インド政府から贈られた釈迦の真身舎利を納め、戦争の犠牲者や工業都市北九州の土地柄もあり産業界の殉職者も祀られている(by 海鳥社刊「北九州を歩く」より)。
(※2)江戸時代に烽火(のろし)台があったところで、外敵に備え異変があると肥前の山に烽火が上げられ、次々と山を経て鞍手郡の六ツ岳からここへ、ここからは小倉の霧ヶ岳(足立山)へと引き継がれた(※1に同じ)。
(※3)小竹の白山神社は山鹿城(遠賀郡芦屋町)城主麻生兵部大輔が、宇都宮の白山権現を勧請したと伝えられ、白山山頂にある上宮が白山神社、中腹にある下宮は熊野神社と呼ばれていたが、今は両宮共通称白山神社と呼ばれている(by 北九州市 時と風の博物館HPより)。

写真上:玄海遊歩道概略図(若松区HPより)
    中:のろし台から洞海湾と皿倉方面の眺め
    下:若松山地MTB&トレッキング踏破概要と各シーンのイラスト図(by kaneko)
 

下関最後の秘島・蓋井島でめいっぱいトレッキングの巻 その3 (2019.01.14)

 投稿者:湯っ栗  投稿日:2019年 1月26日(土)16時22分25秒
    さぁ後は一級国道並のやまどりの散歩道へ戻り、島の北岸寄りに大きく迂回する、これまた立派な山間道を乞月山方面へと歩いた。もちろん15時の最終便に間に合えば、この顕著な円錐峰も踏まなければとの思いであったが、途中道を間違えエミュー牧場を経て北東海岸へ出てしまったのだ。道路はそこで行き止まり。引き返すしかなかったが、海原を挟んで真正面に毘沙の鼻半島の山々、やや右手は鬼ヶ城から竜王山のダイナミックな山嶺が浮かび、その秀景に思わず見入ってしまったことを付け加えておきたい。

  そんなこんなで島内トレッキングも東南端の乞月山までは時間が足らず、次回へお預けとなってしまったのは残念至極。代わりに港へと続く南岸道路へ出る直前で、図らずも国指定重要有形民俗文化財の「“山の神”の森」エリアに踏み入った。こちらは狭い山域に一の森、二の森に三の森まで神聖な森(神域)が区分され(島全体では四箇所設えられ、四の森だけは島の中央部の一角に位置する)、それぞれに社や飾り物や神籬(ひもろぎ)(※2)などを配置、真っ昼間でも一種異様な空気が漂っており、何かしら妖気漂う気配を感じたのは己一人ではなかった筈。それぞれの“森”では、200年ほど前から6年に一度、住人が四つの組に分かれ神事を行っており、今に至っているという。但し高齢化が進む一方で島の住人は90人足らず。伝統行事ゆえ勝手に止める訳にはいくまいが、岐路に立っていることは確かなようである(下関市の広報記事の拾い読みに因る)。もちろん我々はこの神事の軽重も分からず、存続の是非に一家言も持たず、住人の労苦を慮るだけである。

  閑話休題、面積2.35km2 周囲10.4kmの小島ながら、滞在5時間余りで忙しく慌しかった島内トレッキングを終えた。但し、乞月山登頂を含む島の東南部エリアまでは踏み込めず課題を残したままとなったが、予想どおりと言うか、それ以上にか、低山の割に森は深く難渋もして、先の大戦の遺構にも目を奪われた。その意味では冒頭の「~隆々とした島影はタダモノではなく~」を実感として得た意義は大きい。例え動機が遊び心を満たすことであっても、気持ちは少年?の心を揺さぶるに充分だったと言える。次回、再訪して宿題を片付けるか、新たな離島へ転進するかはこれからの愉しみだが、願わくばこの指向性を失わず、日々探究心を醸成させていくことが肝要なようである。

  嗚呼また今回も長々にして、思い入れは強く、話が硬かったかな、と反省を込めながらお開きにしよう。

(※2)神事で、神霊を招き降ろすために、清浄な場所に榊?(さかき)?などの常緑樹を立て、周りを囲って神座としたもの。のちには、神の宿る所として室内・庭上に立てた、榊などの常緑樹もいう(by goo国語辞書)。
(参加者) K子、М田、栗秋
(コースタイム) 門司(自宅)7:23→JR門司駅7:28 55⇒(JR山陽線~山陰線)⇒JR吉見駅8:29 31→吉見港8:37 9:00⇒(渡船・蓋井丸)⇒蓋井港9:37 43→(トレッキング)→蓋井島灯台9:55 57→金比羅山(金比羅社148m)10:06 13→やまどり散歩道から登山道への分岐10:25→奥山(島の北端のピーク・247m)11:19 29→大山(島の最高峰・252m)11:48(昼食)12:18→西ヶ嶽(230mのピーク)12:36 48→(道無き道の急降下)→奥山への登山道との分岐13:13 15→やまどり散歩道へ合流13:18→蓋井港への分岐13:24→エミュ園13:48 50→北東海岸13:56 58→(「山ノ神」の森周遊など)→蓋井八幡社14:31 36→蓋井島港14:40 15:00⇒(渡船・蓋井丸)⇒吉見港15:35 36→JR吉見駅15:41 45 ⇒(JR山陰線~山陽線)⇒JR門司駅16:23 26(門司駅前某所で打上げ16:30~18:50)→自宅19:06
天候:吉見港で小雨、島へ上陸  後晴れ 気温暖か

写真上:図らずも島の北東海岸に出て対岸の下関の山々を眺める
    中:港のある南海岸に出てホッと一息 背後右は乞月山
  下:帰りの船から島を振り返る。左より金比羅山、西ヶ嶽、大山、右の下降気味の稜線ウ上に奥山が見てとれる
 

下関最後の秘島・蓋井島でめいっぱいトレッキングの巻 その2 (2019.01.14)

 投稿者:湯っ栗  投稿日:2019年 1月26日(土)16時07分52秒
    さて北西山塊に入り目指すは南峰・西ヶ嶽へ直登する踏跡を探した。南の峰から北へ縦走して大山、北端の奥山に登り、下山は東側山腹に付けられた踏跡(1/2万5千の国土地理院地図では破線で表示)をなぞろうとの算段であった。しかし直登できそうな踏跡は見つからず、赤テープに導かれた緩傾斜の踏跡は確実に北方へ延びており、(たぶん)地理院地図の破線コースを辿っていることが分かった。ならば先ずは北端のピーク奥山(247m)へ登り、これを起点に南下縦走する逆コースを取るしかあるまい、と計画変更。そうと決め込めば森の中のこのコース、まったく視界は利かないが踏跡はしっかりして思ったより歩きやすく、楽チンコースだったのだ。

  しかしそれも奥山らしき山陰が近づくと踏跡もあやふやにして倒木が行く手を遮ったりと、楽チンは返上してヤブ漕ぎ登山へと変った。しかし深い森ゆえか下草はそれほどでもなく、石垣の残る窪地から一気に駆け上がると、てっぺんには建物跡かなと思わせるコンクリートの礎石が残っている。そして更に進むと森の中に忽然と鉄筋コンクリート造りの二階建て遺構が現れた。隣接して砲台の台座跡も残っており、この奥山々頂一帯は堅牢な要塞跡だったこと分かった。一世紀近く前から造営され、敗戦で幕を閉じたこれらの遺構群を目の当たりにすると、戦争へ突き進んだ往時の国情を憂いつつも、この山中に籠って任務に就いた一平卒の営みはどんなものだったのか、思いは尽きなかった。もちろん両兄の思いも同じにして、先ほどまでの物見遊山な表情とは一線を画した表情がそれを物語っていた筈だ(たぶん)。よって誰ちゃ云わんが「昼飯どこで食う?」とか「まだ?」などと一次欲求的な質問が聞こえてきたのは、きっと空耳だったに違いない(笑)。

  しばし感慨に耽った後は縦走開始だ。しかし森の中の山稜は視界は利かず、思い出したように赤テープが現れるも、明瞭な踏跡はなく尾根を外さないように前進するのみ。かずらに足を取られたり、トゲトゲ樹木をそっとやり過ごしたりと一筋縄ではいかなかったが、それでもこうやって藪山を歩くに、このシーズンがベストじゃないかと今更ながら気が付いたのだ。冬枯れの下草に勢いはなく蜘蛛の巣は皆無。ヘビやヤブ蚊、ブヨなどに遭遇することもなし。樹木に覆われた稜線でも、今日は頭上の葉裏に暖かな陽光を感じ取ることはできる。一方、稜線は途中、高い石垣が現れこれを巻いたり、小ピークでは大ぶりの砲台々座跡が居座って存在感を示したりと遺構がつづき、奥山から20分弱で最高峰の大山らしきところに到達。両側は石垣に囲まれてはいるが、三角点も山名標などの銘板もなく、まったく視界も利かずでは達成感もヨロコビ心もイマイチか。それでも“空耳”に応えてここを昼食場所としたのは、ブーイングが大きくなる前の一手だったことを明かそう(笑)。

 行き行きてまた行き行く。小憩の後は南端の西ヶ嶽へ。相変わらずまったく視界の利かない中、右に左に振れながらも尾根を外れないようにゆるゆると下り、しばらくして上り返すと、コンクリート製の折れた砲身を晒した疑似砲台が下草に絡まりうずくまっているのを発見。そしてすぐ先の西斜面に今度は原型をしっかりと留めた疑似砲台も現れてまたまたオドロキを隠せなかった。敗戦が濃くなり物資の不足した日本では、こけおどしの砲台でも設置せざるを得なかったという現実にだ。敵艦(敵機?)に見せるためだけのいかがわしさが、哀れさと無力感を誘い、刹那いたたまれなくなったが、まさか模した砲台上で、はしゃいでいた御仁がいたなんてあるまいな!

  さてほどなくの西ヶ嶽の頂は樹林の中でちょっとだけ高い台上にあり、壊れかけた石垣が積み上がっている。山名標はないが、この山塊唯一の三角点(二等三角点)が山頂の証だ。しかしここも眺望はなく、それなりの感慨も湧きづらい。それよりもしっかりとした下降ルートがあるのか、そっちの方がもっぱらの関心事だったか、うんうん。

  そこで山頂から少し南へ下ると、またまたぐじゃぐじゃに壊れ風化してしまった疑似砲台があり、これを過ぎて南東の方角へ急降下としたが、下り口に赤テープを発見したのが決め手。しかし以降は一つ、二つ見つけたが後は分からず。地図とコンパスを頼りに道なき道を下るしかなかった。一方で先頭のМ田君は南方向へ寄り過ぎて視界から遠ざかるし、目の前のK子さんは急斜面に足を取られもんどり打って一回転。かろうじて踏み留まり二回転目を我慢できたのは僥倖に違いなかった。咄嗟にコロコロと落ちてしまった後の善後策を考えてしまったが、ホント危なかったなぁと。お互いの表情には安堵感が溢れていましたぜ、フーフー。そんな波瀾万丈の急降下も傾斜が緩み、放駒(M田)君を東方角へ呼び寄せて合流、ヤブ漕ぎの果てに往路の踏跡に出くわした時が今回一番の達成感を味わったような。低山の割に存分に愉しませてもらったなぁ、と遠吠えの一つでも呟いておこう。

写真上:奥山々頂に現存する二階建ての遺構。敵艦(敵機)の監視塔だったか
    中:最高峰・大山への途中、砲台跡らしき遺構が現れた
  下:西ヶ嶽手前で疑似砲台に出くわす
 

下関最後の秘島・蓋井島でめいっぱいトレッキングの巻 その1 (2019.01.14)

 投稿者:湯っ栗  投稿日:2019年 1月26日(土)16時04分48秒
    今年第一級の寒波到来でブルブルの身、引きこもりながら冠雪した門司アルプスを眺めています。それでも陽が差してきたので走りに出ようか、と思っていると急に雪が降り出したりと不思議に天気に翻弄されています。

  さて新春トレッキングの第二弾はようやくの蓋井島(ふたおいじま)に赴きました。いつもながら長々なので3回に分けて書き込みます。以下その1です。

  そもそもこの島に興味を抱いたのは昨年9月、輪友・K子兄と東田シネマの帰途自転車で戸畑は牧山丘陵の最高点に立ち寄ったことで始まった。
以下、そのくだりを記すと
「前略~牧山のピークには三階建てのビルと屋上に電波塔らしき施設が現れ、頂上一帯を占有していた。門柱には『牧山船舶通航信号所』の銘板有り。そこで関係者に立ち入りの許可を得て、頂上から周りの眺望を愉しんだ。~中略~響灘に見慣れぬ島影あるぞ、ありゃ何だぃ?と気になった。北方、若戸大橋の左手海上遥かな位置にもっこりとした小山が連なっている。六連島や馬島、藍島とは明らかに山(丘)の高さが違った。ならば信号所の職員氏に聞くしかなく、質すと「あれは下関の蓋井(ふたおい)島ばい」と。(輪行による)近隣の島巡りの端緒として二週間前、馬島に渡ったばかり。市内&近郊探訪シリーズの一環として離島も加えようと思案していたこともあり、興味津々の眼差しを向けていたものと思う。もちろん蓋井島の名前と地図上の位置は知っていたが、牧山から見た隆々とした島影はタダモノではなく、探訪意欲を強くしたのだったね。~後略」と。

  以降、10月の風師山や小文字山の山頂から、或いは彦島の西山海岸などから眺めた蓋井島は響灘にポツンと浮かぶ隔絶性と島影のボリューム感が目に焼き付いてますますその虜になった、と言っていいだろう。よってようやくの機会到来に期待は半端なかったが、先週の六連島に引続き同行する二人(K子、М田)にそこまでの思い入れは伝わっていまい。何せ両兄には島の最高峰に登り、あわよくば他の山々もピークを踏めたらいいね。ついでに砲台跡など要塞遺構(※1)も見れるよ、ぐらいしか言ってなかったものね。よって物見遊山なトレッキングと映っていたに違いない。まぁ三人とも未知の島ゆえ、行ってみて登ってみてその都度対応するしかなかったのだけど・・・。

  で吉見港から40分の船旅はけっこう揺れて参った。まさに日本海の荒波を受け、もう少し長ければ船酔いに遭ったかもしれずだったか。と言うのも吉見港では雨雲が垂れ込め風も強かったので、響灘の波高しは容易に想定できたこと。もっとも船酔いは我慢するにせよ、西の空は明るく天気は快方へ向かっていて先行きを憂うことはなかったのだ。

  一方で船客7~8名の中にトレッカー風のおじさんが一人いて気を惹いた。我々と風采が似ていれば根掘り葉掘り聞かずにおれないのが、誰ちゃ云わんが我が両兄の性癖である。それによると彼は4回目の渡航で砲台跡などの戦争遺構に通い詰めているという。して今回は北西山塊の南峰・西ヶ嶽周辺の遺構が目当てで、写真に収めるのが目的だそうな。世の中には変わった人もいるもんだ、と質問者・М田君はその表情に書いていたが、それを言うなら藪山に登ろうとする我々も同類項ではないか?と思うのでありますね(云わないけど)。

  とまれ上陸後真っ先に向かったのは港の左手、金比羅山の中腹に建つ蓋井灯台と山頂の金比羅社詣でだ。コースは迷うことなく集落の左手コンクリート道をジグザグに登り、突き当たったところに掲げられた「やまどりの散歩道&金比羅山・灯台」の標識に導かれ森へと入った。なるほど野鳥のさえずりも聴こえてきて“やまどりの散歩道”とはしゃれたネーミングに違いない。そして港から10分余で灯台に到着するも、入口は閉ざされているので中には入れない。標高90mの高台にあって敷地の向こう眼下に海原の気配はするも入口から眺望は望めず、ここは早々と退散して一級の展望地(の筈)の金比羅山へ向かおう。

  でほぼ一直線に突き上げる登山道(参道)を数分でフッと天が抜けた。小さな鳥居と灯篭に祠があるだけの金比羅社、すなわち金比羅山頂(148m)だ。先ずは最初のピークを踏んだが、周りの木々は低く刈り取られ360度の展望は言うことなし。

  特に東南角眼下に広がる蓋井港と、湾の先に円錐状にツンと尖った山容が特徴の乞月山(こいつきやま・・149m)がセットで秀逸だし、背後はこれから向かう北西山塊の南峰・西ヶ嶽(230m)が谷を挟んでもっこりと盛り上がっている。この山塊は調べはしたものの登路もあやふやで、登高意欲が湧く山容ではないが、島の最高峰・大山(252m)へ連なる山塊の主要ピークである。「お手柔らかにお頼み申しまっせ!」と呟いたのを機に一旦下山し、やまどりの散歩道を分岐までゆるゆると下った。しかし今朝の雨の影響か、コンクリートで設えられ苔むすこの一級道は登山靴では滑りやすく気を遣った(こんなところですってんころりはいただけない)。

(※1)昭和10年代に入ると日本と朝鮮、満州との航路を守るため、響灘や玄界灘の島々に砲台を設置し壱岐や対馬の要塞群とも連携して朝鮮海峡全体を防衛するようになった。また、小倉には陸軍造兵廠を持つ軍都でもあったので、関門海峡一帯には空襲を防ぐために高射砲を擁する要塞を多く設置したが、蓋井島のそれも下関要塞群の一部として任務にあたった(by ウィキペディア)。

写真上:蓋井島のイラスト図及びトレッキング踏破コース
    中:金比羅山(148m)から蓋井港と乞月山を臨む
  下:金比羅山の背後には谷を挟んて北西山塊の南端・西ヶ嶽がまっぽうし見えた!
 

新春事始めは花の島・六連島探訪と下関・三社参りに有り (201.01.05) その3

 投稿者:湯っ栗  投稿日:2019年 1月17日(木)10時26分32秒
    標題にも記したので、下関市内の三社参りについて簡潔に触れておくと、往路に詣でた亀山八幡宮はまばらながらも韓国人観光客が大半を占め、一方帰り、二社目の赤間神宮は中国人のグループが境内を席巻してたいそう賑やか。よって周りは日本語よりも他の言語が多く飛びかっていたが、敢えて訝ることもなし。今は日常の光景として違和感も起きないし、新年に願いを託すより、訪日外国人年間三千万超の現実をつぶさに感じることの方が初詣の感慨だったか、と思わぬでもない。

  その意味で1時間半ほど前、図らずも参拝した六連八幡宮の静寂の中の厳めしさは、妙に心に残り、願いを一心に受け止めてくれそうな気がしたのだ。であればここは六連島(のお宮)と志向性を一にしておかなくては、と思い直すことも肝要か(笑)。とそんなこんなで三社目は忌宮神社(※3)を目指したが、漕ぎ漕ぎ忙しくも長府を目指すおじさんたちの後ろ姿に午後の穏やかな陽光が降り注いでいましたね。そぅ、一年の事始めは“穏やかに”で締め括ろうぞ。

(※3)地元に里帰りしていた某首相夫妻を迎える直前に図らずも参拝した結果、境内は警備に当たる私服の警察官が一番多かったか。地元をいろいろ廻って挨拶をせねばならんA倍さんも大変だが、駆り出された警察官のご苦労、痛み入りますね。

(参加者) K子、М田、栗秋

(コースタイム) 門司(自宅)8:16⇒(byMTB K子宅~R3~葛葉・高石餅店8:40 46~R3経由)⇒関門人道T門司側入口9:00 03→人道T下関側出口9:12 15⇒亀山八幡宮9:19 28⇒竹崎港9:38 10:00⇒(渡船・六連丸)⇒六連島港10:20 23→(トレッキング)→六連島灯台&明治天皇行幸聖蹟10:28 35→六連島最高点(104m)10:50 11:00→天然記念物・雲母玄武岩スポット11:05 12→(花き栽培ハウス群を愛でつつ)→農村公園11:20 30→島の南端11:47 50→公民館(港)→六連八幡宮12:00 06→港12:10 30⇒(渡船・六連丸)⇒竹崎港12:50 54(byMTB)⇒シーモール・大丸地下13:00(昼食)13:24⇒赤間神宮13:31 48⇒長府・忌宮神社14:08 24⇒下関美術館14:28(ライフ・アート~しものせき・都市と人のイメージ~展)14:53→長府庭園14:56 15:25⇒関門人道T下関側入口15:37 40→人道T門司側出口15:51 55⇒大里・下二十町某所16:14(新年会)18:15⇒自宅18:28  自転車走行 約42.5㌔

写真上:本土の三社に比べご利益がありそうだった六連八幡宮
  中:三社参りの二社目は復路 唐戸に近い赤間神宮に立ち寄った
  下:三社目は長府の忌宮神社にて、警備中の私服刑事に撮って貰う
 

新春事始めは花の島・六連島探訪と下関・三社参りに有り (201.01.05) その2

 投稿者:湯っ栗  投稿日:2019年 1月17日(木)10時23分44秒
    さて上陸しても花の島としての雰囲気は感じ取れないが、先ずは反時計回りに島を巡った。目指すは歩いて5分の六連島灯台だ。海岸道(コンクリート舗装の立派な車道)の道すがら本土側を眺めれば下関北方に連なる竜王山~鬼ヶ城山の稜線が重厚に横たわり、下関を代表する山々ということが分かる。そして手前洋上は指呼の距離で長州出島が扁平な島影を呈している。ガントリークレーンが建ち並び直線的な海岸線と均一な護岸のありさまは誰が見ても人工島の趣だ。

  ですぐに案内標に導かれ40段ほど石段を登ると台地上に六連島灯台が現れた。幕末、幕府が神戸開港に伴う外国船の安全航行を確保するため、英国との間で設置を約束した5箇所の灯台の一つらしいが、明治新政府が事業を引き継ぎ、「灯台の父」と呼ばれたR・ブラントン(※2)の設計で建設され1872年(明治5年)点灯稼働したとある。「ふ~ん、なるほど」と納得した中でちょっと驚いたのは、完成した同年、明治天皇がこの灯台を視察され、随行員は西郷隆盛だったと灯台敷地の脇に設置された行幸碑に記されていたこと。天皇が離島の灯台を視察すること自体珍しいが、それよりも陸軍大将の西郷がこの地に随行して来ていたとは!明治天皇が全幅の信頼を寄せた西郷との蜜月ぶりを、離島・僻地なる六連島で見てしまったのだ、嗚呼(もちろん二人は無反応だったけど・・・笑)。

  さぁ後は海岸道に戻って反時計回りに進むと急勾配の上りが続き、頂上台地上の最高点・北の台(104m)に導かれた。意外に近いてっぺんだったが、最高点の小高い丘は海上自衛隊六連警備所跡地として周囲は金網を巡らせて入れず。てっぺんの踏破にこだわる筆者としてはちょっと心残りではあったが、金網を乗り越してまでもとなると、理性が邪魔しますわね(笑)。一方でここから南方向はまさに頂上台地に相応しくけっこう広い丘陵地が連なり、港からは全く想像できなかった畑地とビニールハウス群が広がっていた。花の島たる所以であり、六連島の本領発揮の景観だったのは言うまでもない。

  でそもそも何故花卉栽培なのかは、島全体を覆う玄武岩は水はけがよく花卉栽培に適していることと、集落から上ってくれば広々とした台地だ。用地の確保も容易だったのは見れば分かった。加えて地下水が豊富なのよ!とは、花の収穫に赴く途中、スクーターに跨ったまま話してくれたお婆さんの弁。なるほどビニールハウスでの花の栽培は大量の水が要る。離島とはいえ下関や北九州などの市場にも近く、お年寄りでも就農可能な花卉栽培と条件は揃っていたのだ。

  そしてこの頂上台地のもう一つの目玉は世界でも3ヵ所しかないという雲母玄武岩が見られること。これは海底で噴出した溶岩が雲母を含んだまま急速に冷やされて出来たものらしいが、この玄武岩は濃い灰色で、たくさんの小さな穴があり、その中にキラキラ光る黒雲母の結晶が入っている。これが非常に珍しいと言われる所以で、なるほどそう言われればキラキラが入っているような(ないような)。ここは有り難く鎮座する雲母玄武岩を拝んでおかなくてはなるまいが、それよりもこの高台から南東角に開けた眺望に惹かれた。つまりは洋上の向こうに彦島の平べったい島影とその奥、関門海峡を挟んで門司の風師山から戸の上山、足立山の隆々たる稜線が力強く見応えがあったのだ。しかしおらが裏山の連なりが秀逸だったとは、手前味噌と言うんだろうねぇ(笑)。

  折角、花の島に来て「花より眺望」を言い出すのもちぃと可笑しいかな、と思わぬでもなし。更にはこの後頂上台地の南端・農村公園まで歩き、休憩時に食った持参のおはぎも美味く、こじつけで「花より団子(おはぎ)」だったと、小腹がすいた身で口走ったかもしれん。もちろんこれらが六連島の印象だった、と言うつもりはないが、漁業にさほど依存せず、花の島のイメージが定着した住民の営み(花卉栽培)に接すると、他の島にはない穏やかさが目立ってしまうのも道理だ。

  それゆえ方々の島で何かしらのアグレッシブさを求めてきた己としては、単純なこの島の地勢や地形とも相俟って、強い印象や感慨も薄れがちになろうと言うもの。もちろんだからと言ってつまらないとか面白みに欠けるとかではなく、筆者の求める指向性とこの島の趣が多少異なったに過ぎないと思うのでありますね。さぁ、その意味で次は下関の島探訪シリーズの最後!秘境・蓋井島(ふたおいじま)を目指さない訳にはいくまい。低山だけど急峻深山の山嶺が立ちはだかり、我が登高意欲を満たすに違いなく、逸る心を抑えるのもまた愉しだ、と言っておこう。

(※2)R・ブラントンは明治政府のお雇い外国人第1号として採用され、1876年(明治9年)に解雇されるまで全国の要所に28もの灯台を作ったとのこと。彦島南端の金ノ弦岬灯台も彼の設計だったが、灯台の設計のみならず灯台管理や航路策定、鉄橋建設、港湾改修工事などのノウハウ伝授面でも多大な功績を残し、明治政府の“買物”としてはマル(A評価)だったに違いない。

写真上:六連島灯台で明治の世に思いを馳せる
  中:雲母玄武岩スポットから彦島(手前の島影)と企救山地を望む
  下:静けさの中にもしっかりと生活臭のする島の集落
 

新春事始めは花の島・六連島探訪と下関・三社参りに有り (201.01.05) その1

 投稿者:湯っ栗  投稿日:2019年 1月17日(木)10時21分3秒
   近隣の島巡りが面白い。既に小倉北区の藍ノ島や馬島、下関は彦島と竹ノ子島、綾羅木の沖にある長州出島(※1)に関門海峡ど真ん中の厳流島と足跡を残した。もちろん藍ノ島や馬島以外は離島の趣はなく、この両島も小倉市街地には近く、果たして“離島”と呼べるのか難しいところだ。その意味では今回の六連島もJR下関駅近くの竹崎港から渡船で20分の距離と遠くはなく、馬島とは400mしか離れていない。しかし門司の住人(筆者)からすれば、一旦企救半島の先端にある関門人道トンネルで本州へ渡り、下関の中心部まで戻って更に渡船で繋ぐことで異郷・遠島をイメージしてしまうのも無理からぬかな、とこじつけよう(笑)。

  さて事の発端は例によって輪友・K子さんからもたらされた。彼らしいのは島探訪だけでは終わらず、機動力(自転車)を生かして下関市内の三社参りもセットとして巡ろうというもの。もちろん異存のあろう筈はなく、若頭のМ田君も加え、いつもの近隣チャリンコ探検隊の年初事始めだ。そこで本命・六連島のスペックをおさらいしておくと、面積は0.69km?(830m四方)で周囲3.9kmと島内移動は全くの徒歩圏内、最高点は山上台地北端の海上自衛隊用地で104m。昨年10月1日現在で人口は95人、世帯数46はやっぱり過疎の島であったが、主な産業がキクやカーネーションにガーベラなどの花卉(かき)栽培とはユニーク。つまり花の島としてその方面では有名な島らしいのだ。響灘のど真ん中にありながら漁業が主たる産業ではない、というのが面白い。

  島へは一日四往復の船便しかなく、行動は限定される(小倉北区の離島、藍島&馬島の一日三往復に比べるとまだマシか)。我々は下関・竹崎港発第二便、10時ちょうど発で渡ったが(島に10時20分着)、帰り12時30分を逃すと17時10分まで待ちぼうけとなる。つまり着発2時間余で効率よく島内を巡らなければならないが、島の広さと探訪スポットからすると絶妙な時隔と言っていいだろう。とそれはともかく道(海)すがらも面白い。先ずは出航してしばらくは本土と彦島を隔てる狭隘海峡の小瀬戸を低速で前進する。両岸は小型船舶のドッグと家並みが建ち並び工場群と市街地の趣。

  そして海峡出口に架けられた背高のっぽの彦島大橋を潜ると外洋(響灘)に出て、解き放たれたように一気にスピードアップとなる(とは言ってもスピードは知れてるけどね)。所要は20分ほどだからのんびり船旅を愉しむまでには至らず六連港に到着だ。入港する際の島の景色は標高80~100mぐらいの頂上台地が南北に広がり、正面の東斜面は貼り付くように集落が点在している。溶岩台地の島と言う予備知識があればこそなるほどやなぁ、との印象だ。但し、港の南岸(南東角)には民間会社の石油タンクが十数基設えられ、まともに目に入ってくる。この景は素朴に「何か変じゃね?」を抱かせるに充分であって、鄙びた離島のイメージはなく、彦島の延長にある北九州工業地帯の施設の一環かなぁ、と勘繰ってしまいそう(外洋と関門海峡を繋ぐ結接点として、地の利を活かして貯油タンク群を誘致したらしい)。

(※1)下関市(国と県も含む)が国際物流基地として造成した人工島。2009年に開業したが、投資に見合う収益には至っていない現状がある(H29年度市民と議会の集いの質問回答集より)。2014年からアフリカ向けの中古車の積出港、昨年からクルーズ船の寄港地としても供用開始されたが、裏を返せば本業が振っていない証かな、思っている。
一般の立ち入りは制限されているが、下関海響マラソンのコース(29㌔の折り返し点)として開放され、年に一度市民ランナーが駆け抜ける。よって筆者も過去6回上陸を果たした。

写真上:六連島の位置図(JR下関駅近傍の竹崎港から20分の距離)
  中:島の1/25000地図 南北に頂上台地の広がりが見てとれる
  下:洋上から見た六連島全景(下関市HPより)
 

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